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更新日:2017年12月29日

港区ゆかりの文人たち(7)「巌谷小波(いわやさざなみ)」

「巌谷小波(いわやさざなみ)」住居跡:高輪4丁目1番18号 句碑:芝公園4丁目7番35号増上寺境内

港区に縁の深い文人といえば「金色夜叉」を書いた尾崎紅葉が有名ですが、その友人である巌谷小波も区内を活動拠点としていた作家です。明治3(1870)年、東京・麹町平河町(現・千代田区)に生まれた巌谷は文学を志し、尾崎が結成した日本初の文学結社「硯友社」に入りました。巌谷は当時、高級料亭「紅葉館」に足しげく通い、硯友社の同人たちと交遊していたと伝えられています。「紅葉館」の若い女中に人気のあった巌谷は、「金色夜叉」の貫一のモデルとして評判になりました。

明治24(1891)年、巌谷は新叢書(そうしょ)「少年文学」の第一編として犬を主人公にした「こがね丸」を掲載し、創作童話の先駆者となりました。また、巌谷は海外の童話を日本へ紹介するとともに、「浦島太郎」「桃太郎」等の民話を子ども向きに書き改め、今日一般に知られる内容で広めました。まさに近代児童文学の開拓者といえます。また、巌谷は晩年には日本各地を回り、少年少女たちにおとぎ話を読んで聞かせる「おとぎ口演」に熱心に取り組みました。

巌谷は明治40(1907)年、芝高輪南町の地(現高輪)に、ついのすみかを構えました。母や祖母から能、歌舞伎、囲碁、和歌、俳句等を教わり、文芸の素質が自ずと身に付く環境であった巌谷は、趣味で収集した馬に関する玩具や書画、器物を庭に建てた展示館「千里閣」に収め、毎週日曜に無料で公開していました。また俳人としても知られ、増上寺の本堂裏にも句碑が建っています。


増上寺の本堂裏に建つ句碑

都旧跡巌谷小波住居跡

平成27年5月21日号8面の「みなと史跡探訪」の一部に誤りがありました。お詫びして訂正します。
(誤)荻原朔太郎 (正)萩原朔太郎

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