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近代を代表する歌人の斎藤茂吉。精神科医として赤坂区青山南町(現・南青山4丁目)にあった青山総病院の院長も勤めました。その跡地には「あかあかと 一本の道 通りたリ 霊剋(たまきわ)るわが命なりけり」という歌碑が建てられています。
茂吉は明治15(1882)年に山形県の農家に生まれます。漢文や書に親しみ、高等小学校高等科を首席で卒業した秀才でした。そんな茂吉に目をつけたのが浅草で開業医を営んでいた縁戚の斎藤紀一。茂吉は養子として明治29(1896)年に上京します。
青山の病院は、明治40(1907)年に養父の紀一が創設したもの。広大な敷地にローマ築風の病院と斎藤家の住居がありました。当時の青山はタヌキが出没するのどかさだったといいます。空襲で病院と家が全焼した昭和20(1945)年まで、茂吉はここに住み、病院経営と短歌創作に打ち込みました。
茂吉の長男で精神科医の斎藤茂太のエッセイ「青春はエンドレス」には「家族揃っての食事だが、神経質で癇癪(かんしゃく)持ちの父と囲むテーブルにはいつも緊張がみなぎっていた」と青山での生活がつづられています。また、次男の作家・北社夫の代表作「楡家(にれけ)の人々」は、青山脳病院と斎藤一族をモデルに書かれたもの。茂古も二代目の院長・徹吉として登場しています。
昭和28(1953)年に亡くなった茂古は、青山墓地に埋葬。墓石には自筆の「茂古之墓」の文字が刻まれました。
茂吉が住んでいた南青山の住宅跡地に建てられた歌碑
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