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更新日:2017年12月29日

港区ゆかりの文人たち(6)「永井荷風」

「永井荷風」 六本木1丁目6番 偏奇館跡

「ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し」「私は母の為(た)めならば、如何(いか)な寒い日にも、竹屋の渡しを渡って、江戸名物の桜餅を買って来ませう」。このように、明治12(1879)年から昭和34(1959)年という激動の時代を生きた永井荷風は、新しく流入した西洋文化への憧れと、消えゆく江戸文化への慕(した)わしさを、耽美(たんび)的な作品に昇華させています。その代表作「つゆのあとさき」「ひかげの花」「墨東綺譚」等は港区で生み出されたものです。

エリート官僚の家に生まれた永井は、父の要望で渡米し銀行等に勤めますが長続きせず、かねて切望していたフランス行きを決めます。クラシック音楽やフランス文学を堪能して帰国した後、慶應義塾大学文学部の教授に就任、フランス語等を教える一方、雑誌「三田文学」を創刊する等、幅広く活動します。半面、私生活の奔放さから周囲との軋轢(あつれき)が生じ、「三田文学」の運営でも大学側と対立する等、公私共にトラブルが続き、ついに大学を辞職、麻布市兵衛町(現六本木1丁目6号)で隠遁(いんとん)生活に入ります。ここの住居は障子・襖(ふすま)・畳がなく、広い台所の洋風建物でペンキ塗りだったことから、永井は「偏奇館」と名付けました。「偏」や「奇」という漢字を当てたあたりに、偏屈者と自認していた永井の人柄がうかがえます。

「冀(ねがわく)ば来りてわが門を敲(たた)くことなかれ/われ一人住むといへど……思い出の夢のかずかず限り知られず」と永井は、誰に訪ねられることも望まず一人過去の夢を思い返して生きるという孤高の暮らしを、偏奇館で楽しみました。大正12(1923)年の関東大震災では、幸い大した被害を受けずに済みましたが、昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲で偏奇館は焼失、長年集めた蔵書も失いました。以降、永井は港区に生活の拠点を置くことはありませんでしたが、偏奇館での暮らしは26年に及び、生涯で最も長く定住した場所になりました。


荷風が大学を辞職し、隠遁生活を送った偏奇館の跡地

4月21日号に掲載の「みなと歴史探訪(13)港区ゆかりの文人たち(6)永井荷風」において冒頭に紹介した、「ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し」の作者は萩原朔太郎でした。お詫びして訂正いたします。

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