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更新日:2022年9月9日

赤坂地区の地域情報誌(最新号)

街を通じて 平和を考える

赤坂・青山の歴史をたどる

緑豊かで、穏やかに人々が暮らす赤坂・青山は、かつて軍部の施設が多く、まさに軍都でした。当時の名残を通じて、今一度平和について考えてみました。

青山が空襲に遭った日

当時の様子を体験者に直接伺ってみました
1945.5(昭和20年5月)

中西 寿一(なかにし じゅいち)さん

昭和14年(1939)、青山表参道に生まれる。先祖は溜池のほとりで料亭を営むなど、赤坂・青山地域にゆかりがあり、現在も地域活動に力を入れています。また趣味の自転車では現在も日本一周の旅を続けているほど、お元気です

多くの人が集まり常に進化し続ける街、青山表参道。

流行の最先端をいくファッションの街として知られていますが、太平洋戦争末期の昭和20年(1945)5月の東京山の手空襲で、赤坂・青山地域の大半が焦土と化し、火と熱風で逃げ場を失った多くの人達が亡くなったことをご存じでしょうか。

80年以上赤坂・青山地域に住み、5歳で山の手空襲を経験した中西さんにお話を伺いました。

人とクルマが行き交う表参道交差点。77年前にこの周辺が空襲の被害に遭いました


避難途中で見た光景忘れられない少女の姿

取材の始まりは「バケツリレーは知っている?」という中西さんのご質問から。バケツリレーとは空襲時の消火活動の練習で、小さな子どもも訓練に参加していたそうです。

昭和20年(1945)5月25日22時過ぎに空襲警報が発令、当時青山南町5丁目(現在の南青山4丁目付近)に住んでいた中西さんはお母様、弟さんと一緒に青山通りを必死に逃げました。

途中、表参道近くにあった当時の赤坂青山警察署前の防火用水を防空頭巾にかけ、青山墓地に向かい、助かったといいます。

「避難途中、うずくまった姿勢のまま亡くなっていた少女の姿が今でも忘れられない、とにかく逃げるのに必死で戦闘機B-29の記憶はなく、昨今のウクライナ情勢に関する報道を見て、昔もこのような状況だったのか」と連想することがあるそうです。

人との繋がりが平和の秘訣

「高層マンションが増え、地域の繋がりが希薄になってきていることは寂しく思う。『向こう三軒両隣』をもう少し持っていたい。人との繋がりが平和の秘訣ではないか」とのメッセージをいただきました。

「Give me 10 Yen!」
米軍との関わり

空襲で家を失った中西さんは終戦後間もなくして赤坂に住み、越境して当時の永田町小学校に通いました。

当時は多くの米軍が学校近くにも駐留しており、弁慶橋で取った蓮の花を米兵に渡し、「Give me 10 Yen!(10円頂ちょうだい戴!)」とお願いした小学校時代。

「10円は貰もらえなかったけど、チョコレートを貰ってね、その甘さに感動した」。蓮の花を取る際、誤ってマンホールに落ちたところを米兵に助けてもらったこともあったそうです。

取材を終えて

赤坂・青山地域が焼け野原から復興し、今日までの繁栄を築いてくることができたのは、人との繋がりが大切にされてきたからこそではないかと感じました。

素晴らしい赤坂・青山地域を作ってこられた先人の皆様への感謝の心を忘れず、これからも人との繋がりを大切にしたいです。

表参道に今も残る爪痕、そして慰霊の碑

表参道の交差点にあるみずほ銀行(当時の安田銀行)青山支店の前。

地下鉄の出口の裏にあるのが「和をのぞむ」という慰霊碑です。

昭和20年(1945)5月の空襲での犠牲者を慰霊するために、港区政60周年の事業として建てられました。

多くの人々が行き交う場所ではありますが、今ではその存在に気が付く人もあまりいません。

あらためて、77年前にここであったことに思いをめぐらせ、犠牲となった方々への鎮魂の気持ちを手向けてみてはいかがでしょうか。

近くの善光寺にも慰霊碑があります。

右の写真は慰霊碑に刻まれた言葉です。

空襲の様子、そして平和への言葉が刻まれています。

同じく表参道の交差点近くには、通りを挟んで両側に大きな石いしどうろう灯籠があり、一部が欠け、黒ずんだ台座が空襲の爪痕を今に残すと言われています

 

出征兵士たちの旅立ちの地

明治神宮外苑周辺 ▶ 御観兵榎/青山練兵場

聖徳記念絵画館、明治神宮野球場、テニスクラブ、軟式野球場、銀杏並木などの明治神宮外苑や国立競技場、秩父宮ラグビー場…、多くの人々に親しまれているこの一帯はかつて、陸軍の青山練兵場でした。

武家屋敷が多かった青山にはまとまった土地があったこと、青山、赤坂、麻布周辺には陸軍施設が多く設置されていたことなどの理由で、明治19年(1886)に日比谷から移転してきたのです。

青山練兵場は明治天皇ととてもゆかりが深く、日清・日露戦争への出兵や日露戦争の戦勝記念の凱旋大観兵式など、生涯で32回も観兵式が行われました。観兵式のたびに御座所が設けられた場所は、常に榎の木の西前方だったことから、この榎は「御観兵榎」と命名され、今もこの場所を見ることができます。

また、青山練兵場には青山軍用停車場という軍専用の駅がありました。
当初、現在のJR中央線は新宿通りのルートを通す予定でしたが、軍の強い意向により、現在の千駄ヶ谷〜信濃町ルートに変更となり、青山軍用停車場まで引き込み線を敷設したのです。

この中央線のルートこそが、軍の最大の名残と言えるのかもしれません。ちなみにその痕跡はまだ残っており、引き込み線を実際に見ることができます。

青山練兵場は明治42年(1909)に代々木練兵場に移転し、大正15年(1926)に明治神宮外苑が完成しました。それ以降、軍の痕跡はまったく残っていませんが、昭和18年(1943)に明治神宮外苑競技場(当時、後身は平成27年に取り壊された国立競技場)で太平洋戦争の出陣学徒壮行会が行われました。

日清・日露戦争への出征、出陣学徒壮行会…、私たちの憩いの場である神宮の杜は、戦地への旅立ちの地だったのです。

「御観兵榎」は平成7年(1995)に老齢(樹齢200余年)と台風の強風により倒木。遺木の一部は聖徳記念絵画館内に保存されています。現在見ることのできる榎は2代目です

軍隊の街だった赤坂の名残り

檜町公園 ▶ 歩一の碑

東京ミッドタウンは、東京で最も高いタワービルやレジデンス棟、さらに日本庭園を思わせる緑豊かな檜町公園も擁する“複合都市”として、今から約15年前の平成19年(2007)に誕生し、地元から、遠方から、人々が集う笑顔あふれるスポットです。

この約10ヘクタールもの敷地は、明治・大正・昭和前期にわたる67年の間、大日本帝国陸軍の連隊の一つ「歩兵第一連隊」の駐屯地として使われていました。

歩兵第一連隊は、乃木 希典(のぎ まれすけ)が2代目連隊長として統率した西南戦争に始まり、日清・日露戦争、更に太平洋戦争へと従軍。満州に渡っていましたが、敗戦が色濃くなった昭和19年(1944)には連隊主力2500人がフィリピンに派遣され、うち生きて復員できたのはわずか39名でした。

東京ミッドタウンの開発が始まる平成13年(2001)まで、この地には昭和2年(1927)に改築された歩兵第一連隊の本部庁舎や門柱、歩哨舎、外壁が残されていましたが、今は取り壊されたり、移設されています。その歴史の証として残るのが、檜町公園の中にひっそりと建つ「歩一の碑」と刻まれた石碑です。

これは昭和38年(1963)秋、連隊出身者の有志が集まり、その跡を留めるべく建てられたもので、公園の渓流で遊ぶ子どもたちを見守っています。

檜町公園内にある池の南側、草むらにひっそりと佇(たた)ずんでいる「歩一の碑」が今残る唯一の足跡です。ぜひ探してみてください

東京ミッドタウンの裏手に広がる
緑豊かな公園が檜町公園です

歩兵第一連隊
明治40年/東京案内(港区立郷土歴史館所蔵)

歩兵第一連隊
昭和16年/赤坂区史(港区立郷土歴史館所蔵)

防衛庁
昭和58年(港区立郷土歴史館所蔵)

 

 

 

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