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更新日:2024年8月2日

地名の歴史(赤坂地区)

 赤坂(あかさか)

徳川家康が江戸入りする以前の、永禄10年(1567)に開拓が実施されるまで、この地は山林や畑が多く、人家はあまりありませんでした。

大永4年(1524)、小田原北条軍が江戸城攻略に成功し、「一ツ木原」で勝どきをあげた記録があります。

赤坂の起源は、見附から四ッ谷へのぼる「紀伊国坂」のこととされています。坂上に茜草(あかねぐさ)が生えており、「赤根山(あかねやま)」と呼ばれたことから、赤根山にのぼる坂を赤坂と称するようになったというもの。「染物屋が坂に赤い絹を干したから」という別の説もあります。しかし元赤坂町があったのは千代田区側で、赤坂見附の造成により現地に移されました。

赤坂の名は、明暦3年(1657)発行の地図に、はじめて登場しますが、このときは千代田区側に記されていました。このことから、元は麹町へのぼる坂の名だった可能性もあります。

江戸期のこの地域は大半が武家地で、町らしい町は、田町、新町、裏伝馬町あたりでした。

明治11年(1878)の「郡区町村編制法」により、赤坂、青山地区が赤坂区となりました。昭和22年(1947)に港区が成立し、赤坂区に所属した各町はすべて“赤坂”を冠称しました。昭和41年(1966)の「住居表示に関する法律」により、赤坂溜池町、赤坂田町、赤坂新町、赤坂一ッ木町、赤坂丹後町赤坂表町、赤坂台町、赤坂檜町、赤坂中之町、赤坂氷川町、赤坂福吉町、赤坂霊南坂町などの全域または一部に、麻布谷町の一区画をあわせて、現在の「赤坂」となりました。

 北青山(きたあおやま)

青山の地名は、天正18年(1590)に土地を与えられた、徳川家重臣の青山忠成から続く「青山家」(後の丹波篠山藩、美濃郡上藩)の名が起源とされています。

江戸時代に青山家の敷地の一部が町となり、青山浅河町など、“青山”を冠する町名がつけられましたが、それ以前の記録はなく、周辺の集落の名にも“青山”は確認できません。本格的に広域地名として認識されはじめたのは、明治以降であるとされています。

青山家屋敷地より分与された、厚木街道(大山道=現青山通り/国道246号線)以北が現在の北青山となりました。

その後、江戸は町を増やし、青山御掃除町、青山浅河町、青山御手大工町、青山五十人町、青山久保町、青山原宿町、青山六軒町、青山御炉路町、青山若松町、青山善光寺門前などが起こり、明治になるとこれらの小さな町は合併をくり返し、明治5年(1872)、青山権田原町、青山高樹町、青山六軒町、青山三筋町の4町を除く残りの町が、青山北町と青山南町に整理されました。

明治11年(1878)の「郡区町村編制法」で、北町・南町ともに一部を除いて赤坂区に所属、後に港区となり“赤坂”を冠称しました。昭和41年(1966)の「住居表示に関する法律」施行により、赤坂青山北町を中心に、赤坂青山六軒町・赤坂青山三筋町、原宿などの一部をあわせて「北青山」になりました。

 南青山(みなみあおやま)

北青山と同じ経緯を経た後、昭和41年(1966)の「住居表示に関する法律」施行により、赤坂青山南町を中心に、赤坂新坂町、赤坂檜町、赤坂高樹町、麻布新竜土町、麻布笄町などの一部をあわせて「南青山」となりました。

南青山といえば、青山霊園。明治5年(1872)、日本で初めての神道用の公営墓地として美濃郡上藩青山家の下屋敷跡に開設されました。面積は約26万平方メートル、桜の名所としても有名で、花見の季節には大勢の見物客が訪れます。現在は東京都が管理運営しています。

広大な園内には、大久保利通や乃木希典、志賀直哉、尾崎紅葉、斎藤茂吉、高木兼寛、国木田独歩、内藤鳴雪、吉田茂など、おもに明治期の著名人のお墓がたくさんあります。忠犬ハチ公も、ここに眠っています。

 元赤坂(もとあかさか)

一ッ木赤坂といわれた元の集落は、永田町交差点のあたりにありました。江戸城の拡張によって“見附門”が設置されることとなり、赤坂見附交差点の西側に代地が与えられました。

このとき、赤坂下の最も古い町を意味する“元”を冠につけたことで元赤坂となりました。「ここが元々の赤坂!」と標榜したかったのでしょう。

明治5年(1872)、元赤坂町、赤坂伝馬町、赤坂裏伝馬町などが合併して赤坂裏となり、6年後赤坂区に所属。後に赤坂表、赤坂裏、四谷仲町などの一部を編入、昭和22年(1947)年に港区に所属しました。「住居表示に関する法律」により、赤坂表町、赤坂伝馬町、元赤坂町、赤坂青山権田原町、赤坂表町、赤坂青山六軒町などをあわせた地域が「元赤坂」となりました。現在は、その大部分が赤坂御用地になっています。

 表参道(おもてさんどう)

「表参道」といっても、まだあまり地名のような感じはしませんが、駅の名称は、しだいに地名代わりに使われるようになるので、その由来などを取りあげておきます。

よく知られているとは思いますが、これは明治神宮に参拝する一番重要な道として設けられたので、表参道といいます。現在、地下鉄銀座線・千代田線・半蔵門線の駅のある地点に始まって、渋谷区代々木神園町の神宮境内に到達しています。港区の町名は、南青山三~五丁目と北青山三丁目の接するところが駅の位置です。

この駅の場所は、路面電車があった頃、「明治神宮前」と停留所の名称で呼ばれ、地下鉄ができると、その駅は「神宮前」と呼ばれていました。
しかし、神宮前とはいっても、境内入り口から1キロメートルくらいも離れているし、千代田線の駅が国鉄原宿駅のそばにできて、この方が神宮のすぐそばにあるものですから、こちらを「明治神宮前」と駅名を変更することになったものです。昭和47年10月のことでした。

表参道そのものは、大正9年11月1日の明治神宮
鎮座祭に合わせて建設されました。当時、この道の位置は、港区側では、旧町名・赤坂区青山北六丁目で、その神宮寄りの方は、南豊島郡千駄ヶ谷町大字原宿の字南原宿と字赤羽根との境界に当たるところで、田畑らしいものも残っていたようです。

 溜池(ためいけ)

虎ノ門にある石垣は今も見られますが、そこから西北へ、赤坂見附まで広がっていた大きな堀であった溜池をしのぶよすがは、物の形としては何も残っていません。何年か前までは、名残の暗渠をのぞくと水流が見える仕掛けが山王神社の下の鳥居のそばにあったのですが、もうそれもなくなりました。

池の跡にできた「溜池町」という町名も、住居表示としてはなくなったのですが、高速道路の下の交差点名と、バス停の名前に残っています。歴史的には、江戸時代より前から自然の池だったように描かれた図などもありますが、これは誤りです。

溜池はその名のとおり、人が水を溜めてつくったもので、慶長11年(1606)ごろできました。大名の浅野幸長(よしなが)(当時和歌山藩のち広島藩主)が家康にとりいって、江戸城防備の外堀の一環とするとともに、飲料用の上水ダムとしてつくった人口の湖なのです。今の不忍池以上の大きさがありました。

溜池は、水質もよく、風景も美しく、浮世絵などによく描かれました。琵琶湖や淀川からわざわざ鯉や鮒を取り寄せて放したという話もあり、蓮を植えてその花を鑑賞し蓮根を採取したといいます。

やがて周囲がだんだん埋め立てられて、町屋や馬場・紺屋物干場などができ、水質も悪くなったようで、明治7、8年ごろ堰堤(えんてい)となっていた石を取り除いてから陸化しはじめ、渡し舟ができ橋をかけて、明治21年に赤坂溜池町ができました。今では名残の溝川(どぶがわ)も失われて、住居表示の赤坂となりました。

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