更新日:2024年8月2日
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地名の歴史(芝地区)
愛宕(あたご)
かつての「桜田郷の内にあった山名」が、明治3年(1870)に「愛宕町」となったのがこの町名の起こりです。明治期の郡区町村改正法で芝区への編入を経て後に港区へと移行した経緯は、芝地区のほかの町と同様です。
昭和53年(1978)、愛宕一丁目の全部と芝西久保広町の一部が合併し、現在の愛宕となりました。ほかの町より実施が遅れたのは、虎ノ門への編入が検討されたためでしたが、結局、二丁目のみが編入され一丁目が「愛宕」として残ることになりました。
浜松町(はままつちょう)
慶長8年(1603)頃は、増上寺の代官“奥佐久方衛門”が名主を兼ねていたため、「久右衛門町」と呼ばれていました。この頃から海岸が埋め立てられ、おもに増上寺の関係者が移り住むようになり、次第に町を形成していきました。
元禄9年(1696)に遠州(静岡西部)・浜松出身の「権兵衛」なる人物が名主となってから、浜松町と名のるようになりました。
明治期に入り、新見藩関家上屋敷、小田原藩大久保家上屋敷などを併合し、明治11年(1878)、芝区に編入しました。
昭和7年(1932)に神明町、芝新網町、湊町、新銭座町、宇田川町の一部を併合。昭和22年(1947)、港区に所属して芝浜松町となり、昭和47年(1972)に「芝」の冠称が削除され、名実ともにほぼ現在の町となりました。
東新橋(ひがししんばし)
江戸時代のこの地には、会津藩「保科松平家」、仙台藩「伊達家」、龍野藩「脇坂家」の武家屋敷と、芝口、源助町、露月町などがありました。いく多の変遷を経て、昭和7年(1932)には、芝口、源助町、霜月町、柴井町などが合併して新橋に、そして汐留町は汐留となりました。
現在の「東新橋」になったのは昭和40年(1965)で、昔と同様に東海道以東を町域としています。
海岸(かいがん)
大正2年(1913)に日出町、大正8年(1919)に芝浦町、昭和2年(1927)に竹芝町が、それぞれ明治期以来の埋立地に誕生しました。
現在の「海岸」は、昭和11年(1936)、これら埋立地の町に新銭座町(しんせんざちょう)、浜松町、神明町、新網町、湊町などの一部を合わせて呼んだ「海岸通り」が元になった、比較的新しい町です。
港区が誕生したときに、ほかの町と同様に「芝」の冠称をつけましたが、町名の簡素化を旨とする昭和40年(1965)の表示変更で、現在の「海岸」となりました。
神谷町(かみやちょう)
神谷町という町名はなくなりましたが、地下鉄日比谷線の駅の名称として使われています。
日本の国道1号線、すなわち桜田通りの交差点の名称でもあります。
桜田通りは、ここのところで、愛宕山の西の窪地という意味だったという説のある西久保の地域を通過しています。麻布飯倉の高台との間にはさまれた小さな谷間ですから、神谷と谷の文字がついてようにも思われますが、実はこの神谷というのは三河の国八名郡にある村の名をとってつけられたものでした。
町の始まりは、徳川家康が三河にいたころから、その身近に勤めていた、お手廻り仲間(ちゅうげん)の者たちが、家康に従って江戸入りし、慶長19年(1614)に、この土地に組頭以下の組屋敷を与えられたということです。
当時、西の久保田町といったというのは、低地への移行地帯で、田んぼがあったからでしょう。
実はこの土地には、それより以前に漁師が住んでいたらしく、元和(げんな)年間(1615~1624年)にここから麻布に移されて、のちの竜土町(りょうどちょう)(竜土とは漁人(りょうど)のなまりともいう)になったといわれます。昔は海が迫っていたところなのでしょう。漁師たちは町の配置計画上、古い街道の沿道である今の外苑東通り沿いに移されたもののようです。
元禄9年(1696)に組屋敷は町屋敷となり、商人などの居住を許しましたが、その時に郷里の村名をつけるよう町奉行から名主の小兵衛に申し渡しました。増上寺御用の紙屋があったからというのは、誤解の説のようで、昭和52年に虎ノ門となるまで続いた町名でした。
三田(みた)
荏原郡(港区、千代田区の一部と品川・大田・目黒・世田谷区)の御田郷は、古くは、港区三田~白金、目黒区三田までを含む地域で、荏原郡9郷の一つに数えられました。「三田」は区内で最も古い地名の一つで、承平5年(935)頃の文献に「武蔵国荏原郡郷“御田”」と紹介されています。カナが普及する前の時代の書物ですが、「美田」と、漢字で漢字に読み方が記してあったそうです。皇室に献上する米をつくる貴重な田だったので「御田」とする説などがあります。箕田、箕多、弥陀、美田などと表記された時代もありました。
明治4年(1871)、肥前島原藩下屋敷跡に「慶應義塾」が移転(現・二丁目=芝地区内)してきたことにより、下宿屋・食堂・書店・文具店などが増え、武家町から学生街へと町風が一変しました。
明治11年(1878)年、芝区に所属。昭和42年(1967)、芝新門前町、芝新門前河岸、芝赤羽町、芝三田豊岡町、芝新広尾町、芝伊皿子町などが合併し、現在の「三田」となりました。
一~三丁目は芝地区に、四・五丁目が高輪地区に属しています。
西新橋(にししんばし)
やはり昔は、武家屋敷や旗本屋敷が多かった地域です。昭和40年(1965)の「新住居表示」により、南芝佐久間町芝愛宕町などと、芝田村町の西半分、それに芝公園の一部を併合し、現在の「西新橋」になりました。町名の由来は、新橋の西という意味で、わかりやすさを重視したものとなっています。
会社や事務所がたくさん集まっているため、通勤者(昼間)人口が多い町です。
芝(しば)
「芝」の地名は15世紀後半の文献に登場するほど古く、名の由来は明らかになっていません。海苔そだの柴の説、守護職「斯波(しば)」にちなんだ説と、芝草からの説などのほかに、近年では、河口のデルタ地形を示す説などがあります。芝は、漁業と後の海運によって発展しました。
明治11年(1878)に芝区が誕生し、市制町村制改正により一旦、諸町の名前から「芝」の冠称が削除されますが、昭和22年(1947)に港区となり再び復活しました。昭和37年(1962)の「住居表示に関する法律」に則り、昭和39年(1964)に港区内ではじめて区画整理が実施され、それまでの芝金杉町、芝金杉海岸、芝新堀町、芝松本町、本芝、本芝入横町、芝田町、三田四国町(みたしこくまち)など17の旧町が合併して「芝」となりました。
芝大門(しばだいもん)
昭和47年(1972)以前の経緯については、ほかの芝地区の町とほぼ同様です。「オオモン」ではなく「ダイモン」です。
この年の区画整理で、芝宇田川横町、芝三島町、芝中門前などが合併することになったのですが、中心となる大きな町がなかったために、なかなか町名が決まりませんでした。検討を重ねた結果、この地区の象徴でもあった増上寺の“大門”に、“芝”の冠称をつけて名のることになりました。
芝公園(しばこうえん)
芝公園は、元々芝増上寺の境内であり、門前町でした。明治初期は、増上寺の山号である「三縁山」にちなんで三縁町と呼ばれたこともありましたが、明治6年(1873)に公園がつくられ、同地も「芝公園」と呼ばれるようになりました。
一部を新橋三丁目・芝大門一丁目に割譲し、昭和47年(1972)、麻布飯倉五丁目、芝栄町、芝片門前の一部が合併して現在の町域となりました。
新橋(しんばし)
慶長6年(1601)に設定された新しい東海道は、はじめ今の港区芝一丁目あたりが起点でしたが、3年後、増上寺前の浜辺などを埋め立て、起点を日本橋へ延ばしました。この時に、今の港区の北東端に、新しい橋が架けられたのだと思われます。新しい幹線道路の延長にふさわしく「新橋」の名をつけたのか、あるいは汐留川に架かるいくつかの橋の中で“より新しい橋”という意味でそう呼んだのかも知れません。
宝永7年(1710)に芝口御門が橋の北に造営され、日比谷から橋の南へ移された町も、芝口と名づけられました。橋も芝口橋と名前を変えましたが、橋の北側を新橋というようになりました。明治になって橋の名を新橋に戻し、明治5年(1872)には日本の鉄道起点「新橋駅」ができたので、新橋は港区側の地名になりました。
明治42年(1909)山手線に現在の新橋駅が「烏森駅」として開業、大正3年(1914)には新橋駅となり、元の駅が汐留駅になりました。昭和7年(1932)、新橋ははじめて当時の芝区の町名となり、昭和40年(1965)住居表示の町名になりました。
汐留(しおどめ)
「汐留」の地名は、江戸城外堀と海を仕切る堰が「土橋」に設けられていたため、ここからは海の水が外堀に入り込めない、つまり「汐が留まる」ことから付近の地名として使われるようになったものです。
これは、寛永年間(1624年~1644年)以後のことで、「汐留」の名は、近世とともに生まれたといえます。
徳川家康の江戸入府以後の町作りによる埋め立てによって陸地化した汐留地区に、初めに屋敷の拝領を受けたのは龍野藩脇坂家で、寛永9年成立の『武州豊島郡江戸之庄図』に初めてその名が記されています。その後も埋め立て工事は引き続き行われ、寛永16年に会津藩保科家、同18年には仙台藩伊達家が屋敷地を拝領し、江戸幕府解体まで続きました。
大名屋敷の敷地は広大であり、これまでの区内の大名屋敷の発掘調査は、その敷地の一部を調査するに留まっていました。しかし、汐留での発掘調査が行われ、藩邸の全面を調査することができることで、これまでつかみ切れなかった江戸藩邸の全体像をつかむことができると期待されていました。
発掘調査の結果、各藩邸地の造成に伴う土留めや棚、建物跡、井戸や木樋等の上下水道施設、地下室や埋桶等の埋設施設、池跡、鹿芥留め等の土杭、石垣等多種多様の遺構とそれに伴う多量の遺物が検出されています。
江戸に置かれた各藩の屋敷には、大藩では常時千人を超えるような家臣が居住していたといわれ、参勤交代による藩主の江戸在府時には、それ以上の家臣が生活していたことになります。これらの屋敷には、各国元から大量の物資が送られてきたことは想像に難くありません。脇坂・伊達・保科の3藩の屋敷地は、海に直接面していることから、屋敷内に「船入」が設けられ、船で運んできた物資を、直接海から陸揚げすることができました。
また、人々の流入により人口は増大し、百万都市江戸は当時世界最大級の消費地として、さまざまな生産物資が全国各地から海と陸を使って運ばれました。遺跡から出土した遺物は、海路・陸路によって産地や国元から直接邸内に運び込まれたものと、邸内に居住するもの等が、必要に応じて江戸市中で購入したものです。それらの遺物は、江戸時代に各藩邸に生きた人々の生活の証しといえるでしょう。
田町(たまち)~「田町」は東海道筋の新町名~
江戸時代のごくはじめ、増上寺の大門の建設前後に、田町、愛宕、新橋などの地名もはじまったように思われます。
「田町」というのは、現在は正式の町名からはなくなりましたが、「芝」にあるJRの山手・京浜東北線の駅名になって、今も残っています。
徳川家康の政権を決めた、いわゆる関が原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)に、東海道の新しい道筋が建設されました。それまで、三田や高輪の丘の上を通っていた道筋を、海岸におろして、新しい幹線道路としたのです(現在の国道15号線)。そこに新しく道が通りその両側を町にして、この名をつけたものと推定されます。道にそった町ですから細長く、九丁目までありました。
なお、「田町」というのは、住居表示制度の施行までは赤坂にもありましたし、またずっと古く江戸時代のはじめには今の虎ノ門の地域の西久保(愛宕山の西の窪地の意味か)にもありました。これらは、いずれも低地ですから、田であったところを埋め立てて町にした意味のようです。
江戸の市街の発達につれて、田んぼが町になってゆく有様を現しているのが、田町という町名だということになります。ですから田町というのは港区だけではなく、台東区の浅草などにもあった町名で、そちらもやはり田んぼにできた町でした。
虎ノ門(とらのもん)
皇居の周辺に数ある「門」の中の1つだった虎ノ門は、明治6年(1873)に撤去され、現在では門跡の一部が文部科学省脇に残っているのみです。町名の由来ともなったこの門の名は、四方に、青龍・白虎・朱雀・玄武という獣神を配する四神思想(しじんしそう)によるものと推定されています。江戸城の西に位置する虎ノ門は、西の獣神「白虎」にちなんだ名になったわけです。ほかにも諸説ありますが、地下鉄入口付近に虎の像がつくられているのも、この説が有力視されているからでしょう。
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