更新日:2024年8月2日
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地名の歴史(麻布地区)
有栖川(ありすがわ)
広尾は、地下鉄日比谷線の駅名で、町名でいうと西麻布の西側にあります。
このあたりは、広い野原だったところで、天保7年(1836)の『江戸名所図会』の挿絵「広尾原(ひろをのはら)」を見ると、すすきの生い茂った野の道を、馬に乗ったり引いたりする農夫たちと、野遊びを楽しむ男女の行きかう有様が、描かれています。ですから、地名の起こりは広野だったかもしれないのですが、中世の『小田原衆所領役長』(永禄2年(1559))に平尾と出ている地名が、のちの広尾だという推定がありますし、広岡がなまったともいいます。
江戸時代になって、寛文8年(1668)に初めて人家の調べがあり、阿佐布(麻布)村の一部の地名として、なぜか樋蘢(ひろう)と書いたそうです。
それが正徳3年(1713)に町奉行の支配する市街地に編入されてから、広尾町と書くようになったと記録にあります。当時の人家は、今の広尾駅から東の有栖川宮記念公園の入り口付近を中心に、南部坂、木下坂の下へかけての位置にありました。この広尾町のまわりには、南部藩をはじめ大名の下(しも)屋敷や、畑地などが多く、畑は下(しも)渋谷村に属していたところもあります。一般には天現寺橋の向こう岸の方までが、広尾の原といわれていました。
明治5年に広尾町は元大名屋敷や畑地などへ範囲を広げ、古川沿岸の湿地が開拓されて八郎右衛門新田となり、そこを新広尾町と命名しています。住居表示後、広尾は渋谷区側の町名になりましたが、最近は表通りの外苑西通りが地中海通りとも呼ばれています。
麻布台(あざぶだい)
高台ではありませんでしたが、由緒ある「飯倉」の地名を使わず、住居表示でこの名が選ばれました。
明治5年(1872)に「我善坊谷」の武家地を“我善坊町”とし、6年後の「郡区町村編制法」によって麻布区に編入されました。昭和49年(1974)の新住居表示により、麻布我善坊町、麻布飯倉田一~三、同六丁目の全域に、飯倉片町と麻布狸穴町の東半分をあわせた町域を現行の麻布台としました。
麻布狸穴町(あざぶまみあなちょう)
狸穴町の“まみ(猯)”とは、本来アナグマのことですが、狸と混同されたと思われます。おそらくこの地に棲息していたのでこの名になったのでしょう。また、採鉱のマブ穴(坑道)が起源という説もあります。
昭和22年(1947)の港区成立時についた麻布の冠称が残る、数少ない町のひとつです。一部を東麻布に割譲した後、「住居表示に関する法律」により、東半分が麻布台二丁目となり、西半分が本地名のまま残りました。
麻布永坂町(あざぶながさかちょう)
麻布から芝方面に抜ける長い坂があったため、正徳3年(1713)にこの名がついたと伝えられています。
永坂は、東京の坂の名としては上野の“車坂”に次いで古いものとされ、その記録は明暦3年(1657)の「新添江戸之圖」に見ることができます。
ここも、“麻布”の冠称が今に残る、古い地名の一つです。
麻布十番(あざぶじゅうばん)
この町名の由来はいくつか説があります。江戸時代に古川の改修工事のため「第10番目の工夫を出した地域」とか、「10番目の土置き場だったから」、「10番目の工区だったから」などの説が有力です。特に最後の説は、土置き場を示す杭が後に残っていたという記録があったことからも、信憑性が高いと思われていますが、はっきりしていません。
昭和37年(1962)の「住居表示に関する法律」により、麻布網代町の全域と、麻布坂下町、麻布新網町、麻布南日ヶ窪町、麻布宮村町、麻布一本松町、麻布山元町などを合わせて「麻布十番」としました。その後、若干の町域変更を経て現在に至ります。
東麻布(ひがしあざぶ)
麻布の名は、永禄2年(1559)、戦国大名「小田原北条氏」の軍役賦課台帳「小田原衆所領役帳」に、“阿佐布”という表記ではじめて登場します。
江戸時代に入ってもすんなり“麻布”とはならず、安座部、浅府、浅生、麻生など様々な字で書かれていました。ようやく“麻布”で定着しはじめたのが明暦元年(1655)の頃のようです。現在の元麻布あたりに住んでいた当時の農民が、副業で麻の布をつくっていたのがその由来とされています。
江戸時代は、出羽(でわ)新庄藩「戸沢家」上屋敷などの武家屋敷や芝森元町、飯倉町、麻布新網町などの町屋でしたが、明治初頭に麻布新網町、十番馬場町、芝森元町、周辺武家地などを併合しました。芝新門前町となっていた古川北部を芝北新門前町とし、明治44年(1911)の「市制町村制改正」により、各町は麻布・芝の冠称を除きました。しかし昭和22年(1947)、港区に編入されて再び麻布を冠称。昭和37年(1962)の「住居表示に関する法律」の施行を受け、麻布北新門前町、麻布森元町、麻布飯倉町五丁目、麻布新網町のほぼ全域と、麻布飯倉町四丁目・麻布狸穴町・麻布永坂町の各一部をあわせて東麻布とし、昭和56年(1981)の区画調整を経て現在の「東麻布」となりました。
飯倉(いいくら)
交差点名や公園・保育園などの名に残る飯倉というのも古い地名で、源頼朝が伊勢神宮領を寄付した記録にみられます(「吾妻鑑」1184年のころ)。
それは昔からの穀物の倉を意味していたと考えられています。
南麻布(みなみあざぶ)
江戸時代、この地には仙台坂、南部坂の由来にもなった陸奥仙台藩伊達家下屋敷、陸奥盛岡藩南部家下屋敷などの武家地をはじめ、天真寺、曹渓寺、光林寺、天現寺、麻布七仏薬師などの寺社地や門前、麻布本村町、麻布広尾町、三田古川町などの町屋、下渋谷村、麻布村などの村地となっていました。また、元禄11年(1698)から宝永5年(1708)まで将軍家の別荘である白銀(しろかね)御殿(麻布御殿・富士見御殿ともいう)が置かれています。明治に入り、麻布区に所属。「住居表示に関する法律」の施行を受けて昭和41年(1966)、麻布東町、麻布竹谷町、麻布本村町、麻布新堀町、麻布富士見町、麻布盛岡町、麻布広尾町、麻布新広尾町を合わせ、麻布地域の南に位置することから町名を「南麻布」としました。
元麻布(もとあざぶ)
麻布のことは永禄2年(1559)の戦国大名小田原北条氏の軍役賦課台帳(固定資産税の台帳のごときもの)である「小田原衆所領役帳」に出てきます。ただし、阿佐布と書いてあり、そののち江戸時代になっても安座部、浅府、浅生、麻生などいろいろに書かれました。麻布にほぼ決まったのは明暦元年(1655年~)ころからのようです。
当時、今の元麻布あたりで農民が副業に麻布(あさぬの)などを作っていたから、文字を変えたというのですが、確かではありません。もともとアイヌ語だという人もありましたが該当の言葉はアイヌ語にはないようです。
西麻布(にしあざぶ)
江戸時代のこの地は、陸奥(むつ)白河藩「阿部家」下屋敷などの武家地、寺地とその門前、青山原宿村、麻布村飛地、麻布三軒家町、麻布桜田町などがありました。明治に入って、霞町、笄町、桜田町、三軒家町となり、麻布区に所属。昭和42年(1967)、麻布笄町と麻布霞町の大部分に、麻布材木町、麻布桜田町、麻布三軒家町、赤坂青山南町、赤坂青山高樹町などの各一部をあわせて“西麻布”となりました。流行歌にも歌われ、有名人が行き交う町として脚光を集めています。
六本木(ろっぽんぎ)
町名の由来は、6本の松の古木があったからとされていますが、諸説ありはっきりとはわかっていません。
江戸時代は、飯倉六本木町と龍土六本木町という小さな集落しかなく、現在の町域のほとんどは武家地と社寺地でした。
明治2年(1869)に、2つの町に龍土坂口町や周辺の門前をあわせて麻布六本木町を起立し、明治11年(1878)、麻布区に所属しました。昭和22年(1947)、港区に属して一旦除いた麻布の冠称を復活。昭和42年(1967)、麻布六本木町、麻布市兵衛町、麻布箪笥町、麻布今井町、麻布仲ノ町、麻布三河台町、麻布北日ヶ窪町、麻布鳥居坂町、麻布龍土町、麻布谷町、麻布霊南坂町、麻布榎坂町、麻布飯倉片町、麻布桜田町、麻布霞町などの全域、または一部をあわせ、現在の「六本木」が誕生しました。
桜田(さくらだ)
いまはなくなった地名ですが、三田と一緒に桜田という地名も、「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」(935年ごろ)に載っていました。
桜田というと警視庁のあたりと思われそうですが、江戸時代のはじめに今の桜田門あたりに住んでいた人たちは江戸城をつくる都合で新橋一丁目のあたりや六本木六丁目、西麻布三丁目などに移されて、桜田本郷町とか麻布桜田町と呼ばれていました。
昭和7年の区画整理と昭和42年の住居表示でなくなりましたが、桜田も港区の古い地名といえるでしょう。
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