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砲台場、つまり台場がそのまま地名になった地域です。13号埋立地の北西部にあたるエリアで、芝浦地区とは平成5年(1993)に開通したレインボーブリッジ(首都高速道路、一般道、ゆりかもめ)によって連絡しています。
現在は史蹟公園になっている第三台場とは陸続きになっており、訪れる人々の憩いの場となっています。
同埋立地の西側は品川区、高速道路「湾岸線」以南は江東区です。
海浜公園やレインボー公園、アミューズメント施設などを有し、テレビ局の移転もともない、台場は華やかな観光スポットとして人気を集めています。
昭和40年(1965)の「新住居表示」の際、港区の南に位置していることから、この名がつきました。
港南地区は、ペリー来航にともなう江戸の軍事要塞整備の必要から埋立て造成がはじまりました。着工は嘉永6年(1853)です。
まず芝浦沖に海上砲台を設置するための台場の建設が進められ、そのための工事用地、鉄道用地などが高輪沖にも造成されていきました。こうしてできた土地が、後の港南地区の基礎になっていきます。
昭和8年(1933)、埋立地に“高輪の浜”を意味する「高浜町」が起立、芝区に編入されました。
昭和22年(1947)、港区の成立により町名に“芝”を冠称。「新住居表示」により芝高浜町、芝海岸通の一部をあわせた町域が現行の「港南一~四丁目」となり、品川埠頭埋立地と芝品海砲台をあわせた地域が「港南五丁目」となりました。
地域の多くが埋立て地にあたるこのエリアは、比較的新しい町が多いのは事実ですが、意外にも芝浦の名は歴史が古く、昔から知られていました。
文明18年(1486)の「廻国雑記」という紀行に記載されたものが最初とされています。芝の村の海岸を意味する「芝の浦」と呼ばれたのがはじまりで、その後時代とともに“の”が削られ、「芝浦」となりました。
しかし、現在の芝浦の大部分(JR線路の東側)は江戸時代は海でした。当時このあたりは江戸前の魚などが採れる豊かな海でしたが、近代に入り、東京港への大型船の入港を可能にするため、明治末期から昭和初期まで行われた隅田川口改良工事による東京港の浚渫(しゅんせつ)によって生じた土砂を利用して埋め立てられました。
大正8年(1919)、芝浦の海面埋立地を芝区に編入、芝浦町一~三丁目が誕生しました。昭和11年(1936)、この一丁目を海岸通三丁目とし、芝浦町三丁目を西芝浦に割譲、芝浦町二丁目、金杉新浜町、南浜町、月見町などと、金杉川口町、金杉浜町・本芝の一部をあわせて芝浦とし、昭和22年(1947)、港区に所属。後の「新住居表示」により西芝浦一~二丁目をあわせた町域が現在の「芝浦」となりました。
東芝(旧・東京芝浦電気)本社などをはじめとする工場、事業所、倉庫などがこの地域を構成していますが、新たに大規模な高層住宅ができており、その姿は変わりつつあります。
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