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文豪の風景in港区

 01 志賀直哉

「小説の神様」とうたわれた志賀直吉載。明治16(1883)年、宮城県石巻に生まれましたが、2歳のころに一家で東京へ引っ越していて、実は港区育ち。東京で開設された2番目の幼稚園である芝麻布有志共立幼稚園に通い、その後学習院初等科へと進みました。
赤坂の檜町公園すぐ隣にある「志賀直哉住居跡」は直哉が14歳から29歳までの青春時代を過ごした場所。実業家として成功した父親の邸宅でした。初期の作品「網走まで」などはここで執筆されています。反目していた父親との心の溝を埋めていく情景を描いた代表作「和解」の舞台にもなりました。
青年期の工ピソードとして有名なのが自転車です。スポーツマンだった直哉は、当時流行の最先端だった自転車のとりこになっていて、どこに行くにも自転車。自宅のある穴本木から千葉や横浜あたりまで遠乗りをしたそうです。急坂として有名な赤坂の三分坂や虎ノ門の江戸見坂も直哉のサイクリングロードでした。大人になっても自転車好きは変わらず、69歳の時に「自転車」という作品を発表しています。
昭和46(1971)年10月、88歳で没。志賀家の墓が並ぶ青山墓地に埋葬されています。

志賀直哉居住の跡

江戸見坂の現在の様子

  • この情報は、平成20年(2008年)12月1日号の広報みなとに掲載されました。現在と異なる場合がありますので、ご了承ください。

 02 島崎藤村

木曽谷に生まれた島崎藤村は明治14(1881)年、学業のために9歳で兄と上京。以降、都内を中心に転々と住居を変えています。そうした中、生涯で最も長く住んだのが40代半ばから18年間過ごした飯倉片町(現・麻布台)の借家でした。
麻布台から六本木へ向かう外苑東通りを脇に入る細い急坂を下った場所で三方が坂に囲まれていました。藤村の三男は「藤村私記」の中で、「何処へ出かけるにも坂を登ったり降りたりして、不便を忍ばねばならなかったが、急坂な山国で育った父には(略)住み心地よさそうだった」と回想しています。「嵐」「ある女の生涯」「夜明け前」などの作品はここから世に送り出されました。
飯倉に移る前、芝西久保桜川町(現・虎ノ門1丁目)にも滞在。随想集「飯倉だより」で藤村は、「武家の町若くは寺町としての江戸の名残をとどめて居る」とこの辺りについて記しています。
藤村を語る上で欠かせないのが、15歳で入学した明治学院(現・明治学院大学)での体験でした。シェイクスピアやゲーテ、森鴎外などの作品に触れ、文学への興味を開眼。自由な校風やキリスト教の洗礼なども、その後の人生と作品に影響を与えたといわれています。

明治学院大学の構内チャベルの脇には、藤村作詩の校歌を刻んだ石碑が建てられています。

  • この情報は、平成21年(2009年)2月1日号の広報みなとに掲載されました。現在と異なる場合がありますので、ご了承ください。

 03 永井荷風

明治12(1879)年、小石川(現・文京区)で生まれた荷風は、父親が文部大臣官房秘書官、叔父が福井県知事などを歴任した裕福な家庭に育ちます。しかし、親の期待に背き落語家に弟子入りするなど、学生時代から芸能や小説に自らの世界を見いだしていきます。
荷風が終生愛したのは、江戸文化や東京の古い街並みでした。港区に関しては、慶應義塾大学文学部の教授時代に親しんだ新橋花柳界を題材に、「新橋夜話」(しんきょうやわ)や「腕<らべ」などの作品を発表しています。また、小説「冷笑」の中では登場人物に。「巴里の有名なる建築物に対した時の心持に思ひ比べて、芝の霊廟はそれに優るとも決して劣らぬ感激を与えて<れた」と増上寺を語らせました。
二度の離婚を経て、麻布市兵衛町(現・六本木1丁目)に引っ越してきたのは大正9(1920)年のこと。当時はまだ深い緑に囲まれた場所で、隠れ里のような趣だったといわれています。ペンキで塗られていた二階建ての洋館を荷風は自ら「偏奇館(へんきかん)」と呼び、一人自由な創作活動を続けます。ここを拠点に東京の下町を散策、そして遊ぶ中から、「澤東締譚(ぼくとうきたん)」などの名作を生みだしました。
偏奇館は昭和20(1945)年の空襲で全焼。戦後は千葉県市川市に移り住み、昭和34(1959)年、79歳の生涯を終えました。

永井荷風が終戦までの25年間を過ごした偏奇館跡

  • この情報は、平成21年(2009年)3月1日号の広報みなとに掲載されました。現在と異なる場合がありますので、ご了承ください。

 04 齋藤茂吉

近代を代表する歌人の斎藤茂吉。精神科医として赤坂区青山南町(現・南青山4丁目)にあった青山総病院の院長も勤めました。その跡地には「あかあかと 一本の道 通りたリ 霊剋(たまきわ)るわが命なりけり」という歌碑が建てられています。
茂吉は明治15(1882)年に山形県の農家に生まれます。漢文や書に親しみ、高等小学校高等科を首席で卒業した秀才でした。そんな茂吉に目をつけたのが浅草で開業医を営んでいた縁戚の斎藤紀一。茂吉は養子として明治29(1896)年に上京します。
青山の病院は、明治40(1907)年に養父の紀一が創設したもの。広大な敷地にローマ築風の病院と斎藤家の住居がありました。当時の青山はタヌキが出没するのどかさだったといいます。空襲で病院と家が全焼した昭和20(1945)年まで、茂吉はここに住み、病院経営と短歌創作に打ち込みました。
茂吉の長男で精神科医の斎藤茂太のエッセイ「青春はエンドレス」には「家族揃っての食事だが、神経質で癇癪(かんしゃく)持ちの父と囲むテーブルにはいつも緊張がみなぎっていた」と青山での生活がつづられています。また、次男の作家・北社夫の代表作「楡家(にれけ)の人々」は、青山脳病院と斎藤一族をモデルに書かれたもの。茂古も二代目の院長・徹吉として登場しています。
昭和28(1953)年に亡くなった茂古は、青山墓地に埋葬。墓石には自筆の「茂古之墓」の文字が刻まれました。

茂吉が住んでいた南青山の住宅跡地に建てられた歌碑

  • この情報は、平成21年(2009年)4月1日号の広報みなとに掲載されました。現在と異なる場合がありますので、ご了承ください。

 05 樋口一葉

「たけくらべ」などの名作を残して24歳で早世した一葉には、生涯15回の住居遍歴があり、2歳から4歳まで現在の六本木3丁目、16歳の時に高輪2丁目、17歳で芝2丁目に移リ約1年間過ごしました。
明治24年4月15日、一葉は小説の手ほどきを受けようと差区南佐久間町(現・西新橋)に住む半井桃氷(なからいとうすい)を訪ねます。師であり、恋人的存在だったといわれる桃水は、朝日新聞の雑報記者・専属小説作家でした。桃水31歳、一葉19歳の出会いでした。一葉は「色いと白く面ておだやかに少し笑み給えるさま誠に三才の童子もなつくベくこそ覚ゆれ」(通ロー葉日記より)と第一印象を記しており、次第に恋心を抱くようになりますが、二人の関係を疑う噂が広まり、心ならずも一時期決別します。
「日記にあるとおり、一葉の恋は炭の火がくすぶるように心の中で燃えていて、苦しいものだったと思われます」と一葉記念館の原田依子さんは話します。その思いは、明治25年8月10日、桃水に宛てた手紙に書かれておリ、一葉の書簡の中でも優れた名文と言われています。(写真は台束区立一菜配念館咸)

樋口一葉

 半井桃水

  • この情報は、平成21年(2009年)5月1日号の広報みなとに掲載されました。現在と異なる場合がありますので、ご了承ください。

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