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東海道の起点が芝から日本橋まで延ばされたのは慶長9(1604)年。そのとき汐留川にかけられたのが新橋でした。橋の周りに米屋などが並び、たもとには貸船がー江戸時代の新橋はそんな光景だったと伝えられています。
当時、格式の高い橋には擬宝珠(ぎぼし)という装飾がつけられました。庶民が使える江戸城外の橋で擬宝珠を持っていたのは日本橋と京橋、新橋だけ(「論考江戸の橋」松村博著)。東海道にかかるこれらの橋を幕府がいかに重視していたかが分かります。
街並みに目を移すと、新橋周辺は武家屋敷が立ち並び、遠山金四郎の屋敷もあったといいます。現在の新橋4丁目あたりです。
宝永7(1710)に芝口御門が橋の北側に建てられたことで、名前を芝口橋に変えましたが、明治になって元の新橋に。界隈が一流の花柳界として賑わい始めたのもこの頃からでした。明治5(1872)年には初の鉄道の起点として「新橋駅」が登場し、日本の近代化を支えました。高速道路建設で汐留川が埋め立てられ、昭和30年代後半に橋として役目を終えました。
赤穂浪士たちが討ち入り後、泉岳寺に向かう道中に渡ったとされる金杉橋。時代小説にもたびたび描かれていて、池波正太郎時代小説「鬼平犯科帳」では、主人公の平蔵が下手人を追う場面などに登場します。
日本橋から東海道を出発してちょうど一里。現在の芝1丁目と浜松町2丁目の間、古川にかけられています。江戸後期の資料によると、当時の大きさは長さ11間(約20m)、幅4間(約7.3m)。橋のほんの数十m先には海が広がっていました。安藤広重の「名所江戸百景」の一枚「金杉橋芝浦」には、橋から展望できる江戸湾が描かれています。
現在も金杉橋付近の川面には、小さな屋形船がビッシリ。夏の夜には屋形船に付けられた色とりどりの提灯が周囲を照らします。
東京で初めてガス灯がともった場所としても金杉橋はその名を知られています。明治7(1874)年、京橋との間に設置されたガス灯は近代化の象徴として(わずか15W程度の明るさでしたが)、発展する東京の夜を照らしました。
金杉橋に立つ現在の一里塚(4km)
金杉橋
金杉橋から見える現在の風景
古川と現在の金杉橋
国道1号で三田から東京タワーへと向かう途中の古川にかけられている赤羽橋。延宝3(1675)年、川を深くし 際に造られました。赤羽の語源は赤埴(あかはに)。埴とは粘土の意味で、付近で赤い粘土がとれたことからこの名前がつけらたといいます。
当時、橋の西側には久留米藩有馬氏の上屋敷が広がり、屋敷内には“江戸一”と称された火の見やぐらが立てられていました。橋の周りには芝浦で捕れた魚の朝市が並び、漁師たちが一寸(ちょっと)商いをすることから、「ちょろ河岸」とも呼ばれていたそうです。
幕末には歴史の舞台にも登場。新撰組結成のきっかけをつくった尊皇攘夷志士の清河八郎は赤羽橋辺りで暗殺されました。
現在の橋は昭和49(1974)年に造られたもの。たもとには、明治、大正期のものと思われる重厚な欄干(らんかん)が残されています。
古川にかかる現在の赤羽橋
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