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「僕がお前に物を言うのも今夜限りだよ。一月の十七日、宮さん、よく覚えておおき。来年の今月今夜は、貫一はどこでこの月を見るのだか」。聡明(そうめい)ながら身寄りのない学生の貫一は、婚約者の宮が富豪の男性に心変わりしたことを知り、熱海の海岸で宮を足蹴(あしげ)にして行方をくらまします。その後、金の亡者となった貫一と、不幸な結婚生活を送る宮の悲劇を描いた小説「金色夜叉」は、大人気となってたびたび映画化・ドラマ化され、貫一とお宮が「引き裂かれた恋人」の代名詞となるほど社会に影響を与えました。
この「金色夜叉」の作者が、港区と縁の深い文豪・尾崎紅葉です。紅葉は慶応3年(1868年)に芝中門前二丁目25番(現在の芝大門2丁目7番4号)にあった首尾(しゅび)稲荷神社そばの家で生まれ、小説集を「芝肴(しばざかな)」と名付けるほど芝の地を愛しました。ペンネームの「紅葉」は、現在の東京タワー付近(当時は増上寺境内)の紅葉山に由来するものです。当時この山には高級料亭「紅葉館」があり、紅葉や、紅葉が結成した日本初の文学結社「硯友社(けんゆうしゃ)」の文人たちは、この料亭を集いの場としていました。
現在、芝大門2丁目7番に「尾崎紅葉生誕の地」を記念する札が立っています。そこから徒歩数分の芝公園4丁目2番辺りが現在の紅葉山です。紅葉は、南青山の青山霊園に葬られており、まさに生涯にわたって、港区に縁のあった文人といえます。
ペンネーム「紅葉」の由来となった紅葉山(現在の東京タワー周辺)
芝大門にある尾崎紅葉誕生の地
芝大門にある尾崎紅葉誕生の地
住居跡「六本木4丁目3番13号」青山霊園1-イ2-11
「私が自分に祖父のある事を知ったのは、私の母が産後の病気で死に、その後二月程経って、不意に祖父が私の前に現れて来た、その時であった。私の六つの時であった」。この簡潔にして明瞭な、情報を的確に盛り込んだ名文は、志賀直哉の長編小説「暗夜行路」の冒頭です。母と祖父の不義の結果、生を受けた「私」の苦悩を描く、近代小説の金字塔である本作のこの出だしは、「日本語の名手」という評判をほしいままにした志賀の、実力を語って余りある文章です。
その志賀は麻布三河台町、現六本木4丁目で14歳から29歳までの時を過ごしました。裕福な家に生まれた志賀はこの地で1,682坪の広大な邸宅に住み、当時高価だった自転車を乗り回して、赤坂の三分坂や虎ノ門の江戸見坂まで出向いていました。
若き日の志賀は文学にのめり込み、実業家の父に疎まれるようになっていきます。志賀家では祖父も財界人で、しかも足尾銅山開発に関わった人物でした。当時の社会問題であった鉱毒事件に対して志賀家内では、若い志賀の正義感と父の立場が衝突することもあったようです。
やがて志賀は麻布三河台の屋敷を飛び出し、父への反発を昇華させた「暗夜行路」を著すこととなります。
後に作家として大成し、父とも和解した志賀は、今、一族の墓所がある青山霊園に眠っています。
志賀直哉居住の跡の碑
青山霊園内にある志賀直哉の墓石
住居跡「麻布台3丁目4番17号」
明治学院大学「白金台1丁目2番37号」
「木曽路はすべて山の中である。あるところはそばづたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」。書き手自身の土地勘を感じさせるこの文章は、島崎藤村の代表作「夜明け前」の冒頭です。島崎は中山道、別名木曽路沿いの宿場町に生まれ、上京して区内の明治学院(大学)で学びました。
明治学院卒業後、教師となった島崎は明治30(1897)年、詩集「若菜集」を発表して文壇にデビューします。「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり」で始まる「初恋」や、曲を付けられて今日でも愛唱されている「名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ 故郷の岸を離れて 汝はそも波に幾月」の「椰子の実」等、ロマンチシズムあふれる流麗な七五調で名声を博しました。
しかし、次第に詩や浪漫主義から離れた島崎は、散文と自然主義に心を寄せ、「破戒」等の小説を書くようになります。フランス留学から帰国した後は区内に居住し、中でも飯倉片町(現麻布台)では18年を過ごしました。大作「夜明け前」は、島崎が生涯で最も長く住んだ飯倉の家で書かれたものです。
旧居跡の碑
明治学院大学構内にある島崎作詞の校歌を刻んだ碑
東洋英和女学校(現・東洋英和女学院中学部・高等部)「六本木5丁目14番40号」
「赤毛のアン」「フランダースの犬」等を翻訳して日本に紹介したことで知られる児童文学者・村岡花子は、港区と縁の深い人物です。
山梨県甲府市で生を受けた花子は幼少期に一家で上京し、品川区内の小学校を卒業した後、キリスト教系の東洋英和女学校(現在の東洋英和女学院中学部・高等部)に入学しました。花子の家庭は豊かではなく、華族の子女も通っていた東洋英和女学校へ入れたのは、クリスチャンである父の人脈のたまものだったそうです。寮生活では、仲間たちと麻布十番の餅菓子屋で買った金つばを食べ、また、大正三美人の一人とうたわれた柳原白蓮(びゃくれん)と深い友情を育みました。
卒業後、英語教師として山梨県の女学校へ赴任した花子は、26歳で再上京します。赤坂付近にあった「婦人矯風(きょうふう)会館」に下宿しながら、築地の出版社「教文館」へ通勤し、童話作家・翻訳家として才能を開花させました。
昭和7(1932)年から昭和16(1941)年までは、愛宕山にあった東京放送局(現在のNHK)のラジオ番組で「コドモの新聞」を担当し、「ラジオのおばさん」として子どもたちに親しまれた花子。学生時代のみならず、「働く女性」としても港区とゆかりのある生涯だったのです。
東洋英和女学校(現在の東洋英和女学院中学部・高等部)
昭和16(1941)年まで愛宕山に東京放送局(現在のNHK)があり、現在はNHK放送博物館になっている
南青山4丁目17番40号 斎藤茂吉居住の跡青山霊園
近代短歌の巨匠、斎藤茂吉は港区を舞台に、医療に貢献した人物でもありました。明治15(1882)年山形に生まれた茂吉は、親戚の医者を頼って上京、その婿養子となって「青山脳病院」(現在の南青山4丁目17番付近)で病院経営と診療に携わったのです。本業のかたわら、学生時代からの趣味である短歌を続け、同人誌「アララギ」の主要メンバーとして活躍、連作「死にたまふ母」や歌集「赤光」で名声を博しました。
茂吉は大正13(1924)年、ドイツ・オーストリア留学からの帰国の途上、青山脳病院が失火により全焼したとの知らせを受けます。その後は、跡地と世田谷とに青山脳病院を分離して再建し、多額の借金を負いながらも医療と文学活動に従事し続けました。現在、居住跡には「あかあかと一本の道通りたり霊剋(たまきわ)るわが命なりけり」という茂吉の歌碑が建っています。この歌からは、茂吉は自分の命・人生を真っ赤に燃えて貫通している道に例えており、医者としての使命感が感じられます。
茂吉が病院経営に苦労する様子や家族の人間模様を小説「楡家の人びと」に著したのが、次男の北杜夫です。杜夫は、父から医者になることを強いられて反発し、また親の七光を嫌ったこともあって、あえて「北」という姓の筆名を使用していました。軽妙なエッセー「どくとるマンボウ」シリーズや芥川賞を受賞した「夜と霧の隅で」等多彩な作品を残しました。兄(茂吉の長男)茂太も精神科医でありながら、家族や心をテーマにした随筆を数多く残しており、文学一家として歴史に足跡を残しました。
居住跡には現在、斎藤茂吉の歌碑が建っている
青山霊園内にある斎藤茂吉の墓
六本木1丁目6番 偏奇館跡
「私は母の為(た)めならば、如何(いか)な寒い日にも、竹屋の渡しを渡って、江戸名物の桜餅を買って来ませう」。このように、明治12(1879)年から昭和34(1959)年という激動の時代を生きた永井荷風は、新しく流入した西洋文化への憧れと、消えゆく江戸文化への慕(した)わしさを、耽美(たんび)的な作品に昇華させています。その代表作「つゆのあとさき」「ひかげの花」「墨東綺譚」等は港区で生み出されたものです。
エリート官僚の家に生まれた永井は、父の要望で渡米し銀行等に勤めますが長続きせず、かねて切望していたフランス行きを決めます。クラシック音楽やフランス文学を堪能して帰国した後、慶應義塾大学文学部の教授に就任、フランス語等を教える一方、雑誌「三田文学」を創刊する等、幅広く活動します。半面、私生活の奔放さから周囲との軋轢(あつれき)が生じ、「三田文学」の運営でも大学側と対立する等、公私共にトラブルが続き、ついに大学を辞職、麻布市兵衛町(現六本木1丁目6号)で隠遁(いんとん)生活に入ります。ここの住居は障子・襖(ふすま)・畳がなく、広い台所の洋風建物でペンキ塗りだったことから、永井は「偏奇館」と名付けました。「偏」や「奇」という漢字を当てたあたりに、偏屈者と自認していた永井の人柄がうかがえます。
「冀(ねがわく)ば来りてわが門を敲(たた)くことなかれ/われ一人住むといへど……思い出の夢のかずかず限り知られず」と永井は、誰に訪ねられることも望まず一人過去の夢を思い返して生きるという孤高の暮らしを、偏奇館で楽しみました。大正12(1923)年の関東大震災では、幸い大した被害を受けずに済みましたが、昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲で偏奇館は焼失、長年集めた蔵書も失いました。以降、永井は港区に生活の拠点を置くことはありませんでしたが、偏奇館での暮らしは26年に及び、生涯で最も長く定住した場所になりました。
荷風が大学を辞職し、隠遁生活を送った偏奇館の跡地 |
住居跡:高輪4丁目1番18号 句碑:芝公園4丁目7番35号増上寺境内
港区に縁の深い文人といえば「金色夜叉」を書いた尾崎紅葉が有名ですが、その友人である巌谷小波も区内を活動拠点としていた作家です。明治3(1870)年、東京・麹町平河町(現・千代田区)に生まれた巌谷は文学を志し、尾崎が結成した日本初の文学結社「硯友社」に入りました。巌谷は当時、高級料亭「紅葉館」に足しげく通い、硯友社の同人たちと交遊していたと伝えられています。「紅葉館」の若い女中に人気のあった巌谷は、「金色夜叉」の貫一のモデルとして評判になりました。
明治24(1891)年、巌谷は新叢書(そうしょ)「少年文学」の第一編として犬を主人公にした「こがね丸」を掲載し、創作童話の先駆者となりました。また、巌谷は海外の童話を日本へ紹介するとともに、「浦島太郎」「桃太郎」等の民話を子ども向きに書き改め、今日一般に知られる内容で広めました。まさに近代児童文学の開拓者といえます。また、巌谷は晩年には日本各地を回り、少年少女たちにおとぎ話を読んで聞かせる「おとぎ口演」に熱心に取り組みました。
巌谷は明治40(1907)年、芝高輪南町の地(現高輪)に、ついのすみかを構えました。母や祖母から能、歌舞伎、囲碁、和歌、俳句等を教わり、文芸の素質が自ずと身に付く環境であった巌谷は、趣味で収集した馬に関する玩具や書画、器物を庭に建てた展示館「千里閣」に収め、毎週日曜に無料で公開していました。また俳人としても知られ、増上寺の本堂裏にも句碑が建っています。
増上寺の本堂裏に建つ句碑
都旧跡巌谷小波住居跡
墓碑:南青山2丁目32番2号 青山霊園
37歳という短い生涯の中で、明治の文壇に確固たる足跡を残した国木田独歩は、港区と縁の深い作家です。明治4(1871)年生まれの国木田は、明治27(1894)年に日清戦争の従軍記者として名を挙げました。その後、三田四国町(現:芝)に住む佐々城信子と知り合い、芝公園や武蔵野を共に散策して愛を深めます。佐々城は自分から兼房町(現:新橋)の国木田の下宿を訪問する等、明治時代の価値観からすると極めて大胆な女性で、母親の反対を押し切って国木田と結婚しますが、翌年に国木田のもとを離れ、そのまま離婚しました。国木田と佐々城のロマンスは、作家・有島武郎の代表作「或る女」の中で若手ジャーナリストとヒロインの電撃的な恋愛・結婚・離婚のモデルになったといわれています。
明治30(1897)年、国木田は「独歩吟」を発表して詩人として認められ、その翌年には浪漫的な短編小説「武蔵野」「忘れえぬ人々」等を発表し、明治34(1901)年の「牛肉と馬鈴薯(ばれいしょ)」とともに自然文学の先駆けとして評価されます。国木田の作中には実在の地名が多く登場し、「武蔵野」には「渋谷辺を流れて金杉(現:芝)に出づる」水流や、「東京市街の一端」白金等、現在の港区の地域も描写されています。
国木田は、明治34(1901)年から赤坂氷川町(現:赤坂)に居住していました。随筆「夜の赤坂」には、赤坂がまだ「狐や狸の居る」ところであったことや、氷川神社の森の「物寂(ものさび)しい」様子、それでも溜池(現:赤坂)の大通りは「乙に気取った楽の音」が聞こえ、にぎやかであったこと等が書かれています。
また、国木田は麻布龍土町(現:六本木)にあった洋食店「龍土軒」で開かれていた文学者たちの集まり「龍土会」に参加し、田山花袋や島崎藤村らとも交流しました。
記者や詩人、そして小説家として名を挙げた国木田ですが、肺結核を患い、明治41(1908)年に死去しました。遺骨は青山霊園に埋葬され、墓碑には親友・田山花袋の筆跡で「独歩国木田哲夫之墓」と刻まれています。
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