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更新日:2017年12月29日

港区ゆかりの文人たち(8)「国木田独歩(くにきだどっぽ)」

港区ゆかりの文人たち(8) 「国木田独歩(くにきだどっぽ)」 墓碑:南青山2丁目32番2号 青山霊園

37歳という短い生涯の中で、明治の文壇に確固たる足跡を残した国木田独歩は、港区と縁の深い作家です。明治4(1871)年生まれの国木田は、明治27(1894)年に日清戦争の従軍記者として名を挙げました。その後、三田四国町(現:芝)に住む佐々城信子と知り合い、芝公園や武蔵野を共に散策して愛を深めます。佐々城は自分から兼房町(現:新橋)の国木田の下宿を訪問する等、明治時代の価値観からすると極めて大胆な女性で、母親の反対を押し切って国木田と結婚しますが、翌年に国木田のもとを離れ、そのまま離婚しました。国木田と佐々城のロマンスは、作家・有島武郎の代表作「或る女」の中で若手ジャーナリストとヒロインの電撃的な恋愛・結婚・離婚のモデルになったといわれています。

明治30(1897)年、国木田は「独歩吟」を発表して詩人として認められ、その翌年には浪漫的な短編小説「武蔵野」「忘れえぬ人々」等を発表し、明治34(1901)年の「牛肉と馬鈴薯(ばれいしょ)」とともに自然文学の先駆けとして評価されます。国木田の作中には実在の地名が多く登場し、「武蔵野」には「渋谷辺を流れて金杉(現:芝)に出づる」水流や、「東京市街の一端」白金等、現在の港区の地域も描写されています。

国木田は、明治34(1901)年から赤坂氷川町(現:赤坂)に居住していました。随筆「夜の赤坂」には、赤坂がまだ「狐や狸の居る」ところであったことや、氷川神社の森の「物寂(ものさび)しい」様子、それでも溜池(現:赤坂)の大通りは「乙に気取った楽の音」が聞こえ、にぎやかであったこと等が書かれています。

また、国木田は麻布龍土町(現:六本木)にあった洋食店「龍土軒」で開かれていた文学者たちの集まり「龍土会」に参加し、田山花袋や島崎藤村らとも交流しました。

記者や詩人、そして小説家として名を挙げた国木田ですが、肺結核を患い、明治41(1908)年に死去しました。遺骨は青山霊園に埋葬され、墓碑には親友・田山花袋の筆跡で「独歩国木田哲夫之墓」と刻まれています。


墓碑には親友・田山花袋の筆跡で「独歩国木田哲夫之墓」と刻まれている

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