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更新日:2022年2月18日

高輪地区の地域情報紙(最新号)

高輪地区地域情報紙「みなとっぷ」第45号

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 この街にこの人あり

慶應義塾大学名誉教授 経済学者
島田 晴雄(しまだ はるお)さん

プロフィール

1943 年- 東京生まれ
1965 年- 慶應義塾大学経済学部 卒業
1970 年- 慶應義塾大学大学院経済学研究科 博士課程修了
1974 年-ウィスコンシン大学 博士課程修了
1982 年- 慶應義塾大学経済学部 教授
1986 年-マサチューセッツ工科大学 訪問教授
1987 年- ESSEC(経済経営グランゼコール)(フランス) 交換教授
2000 年- 東京大学先端科学技術研究センター 客員教授
2007 年- 株式会社富士通総研 経済研究所 理事長
2017 年- 千葉商科大学 学長 公立大学法人首都大学東京 理事長
2020 年- 東京都公立大学法人 理事長


「春暁」(2005年 島田 晴雄 作)

語学の習得について

英語が堪能でいらっしゃいますが、どのように勉強されたのですか?

高校生の頃、本気で英語をやりたいと思い、中学2年の教科書から再勉強を始めました。大学に入り英語部に入部しましたが追いつけない。ある日、「Ishall return」と言いダグラス・マッカーサーの真似をして教室を出ていきました。戻るには英語が上手く話せるようになるしかなかったのです。そこで家の近くに住んでいた宣教師に助けを求めました。私が書いた文章を直してもらい、英語で吹き込んでくれたテープを通学時や家庭教師のアルバイトに行く際にとにかく何度も、日に30回くらいは聞きました。何千回と聞いた頃、歌うように上手く話せるようになっていて、軽い気持ちで出場した慶応のコンテストで3位を取りました。また、我が家で受け入れたアメリカ人の交換留学生を2週間面倒を見ながらあちらこちらに連れて行き、それで相当レベルが上がりました。

1964年の東京オリンピックで通訳をされたそうですね?

通訳は全て学生が対象で、何万人か受験して2500人の学生が選ばれ、トップ100人が参加各国の通訳団長になり、その内さらにトップの成績の10人が主要国の通訳団長に。当時の与謝野秀事務総長(与謝野晶子の孫)の指示で私は主要国の団長になり、一番忙しいプレス担当にもなりました。開会式は印象的でした。空を見上げると自衛隊の飛行機が五輪を描きました。後で聞いたことですが、練習では輪が合わず、あの日初めて五つの輪が成功したそうです。思うに良い時代、のどかな時代だったと。現代だったら練習で出来なかったものを本番でやらせないでしょう。五輪の輪を見ながら、ワーっという歓声を聞いて、日本人に生まれて本当に良かったと思いました。

中国語も堪能でいらっしゃいますね?

千葉商科大学の学長になり70歳過ぎから始め、猛勉強をして中国語で講演するまでに至りました。この先、学生が社会に出る頃中国は大きくなり、中国語に力を入れるべきだと思ったからです。学生の6割以上は中国と関わる職に就くでしょう。トラブルになったら中国語で喧嘩ができるくらい話せるようにならないといけないと。そこで、学長である私自ら式辞は中国語でやると決めたのです。毛沢東の出身である湖南大学での私の講演を聴講している学生250人のうち50人は日本語が話せ、200人は英語を話せました。トリリンガル(三ヶ国語を話せる)もいるのです。中国は人を育てる教育をしていると思います。今の日本は敵わないですね。相手の文化を尊敬すると語学はできるもの。ですから恋人を作ることがベストですね。(笑)

絵画について

4歳から絵を描かれたということですが?

兄弟の中で一番身体が小さく、虚弱であったので親が心配して手に職をという感じで絵を習わせてくれました。ご近所の有名な岡田健三先生のところに通うことになりましたが、大人の生徒ばかりの中でひとりピュアな4歳児がひたすら一生懸命描いていました。先生は全く何も言わずにそんな自分の背後に立ってじっとご覧になられる、と何故か絵筆が進んだものです。その経験からピュアな幼児を教えるのは天才でないとだめ、天才は幼児の才能を引き出せるという思いに至りました。ノーベル賞を得た人は子供を教える方が良いと思います。

小学生時代「天才画家」と呼ばれていましたね?

当時日本中の子ども画家の中でも自分だけアメリカのライフ誌の取材を受けたこともあり、小学校では特別扱いをされ、嫌でした。また、岡田先生が渡米してしまい絵を描く気が失せていた小学3年生の頃、洞窟の写真展を観に行き洞窟の岩に傷をつけただけのバッファロウの絵と横の一本の原始的な線を観て衝撃を受けました。その一本の線は絵を描けない人がバッファロウに感謝への気持ちをピュアに表現した貴重な絵ではないかと。その後絵とは何だろう、このバッファロウへの感謝の気持ちを描いたものが絵ではないか、もっというと絵は描かなくて良いのではないかと思ってしまったのです。書道は文字を読めた方が良い、音楽は楽譜が読めないといけない、ただ絵にはルールがありません。絵は誰でも描けるピュアなもの、生命の表現、生きていることそのものが絵ではないかと思います。この後、中学校の先生とも絵に対する意見が合わずに12歳で絵は描かなくなりました。

絵を描かなくなって、再開するきっかけは?

小泉首相の担当の時に委員会を作り僕は委員長となりました。メンバーのお一人にフランス代表のシャネルの社長リシャール氏がいらっしゃり、40年絵を描いていないとお伝えすると絵を描くことを強く勧められ、シャネル本社の銀座移転のオープニング企画として個展を開くことになりました。
再開後の絵は表現しやすいアクリル画にしました。写実よりも心象風景を描きたいと思いましたが初めは上手く描けずに大変でした。
伊豆にある別荘に毎週末通って絵を描き、次第に描けるようになり絵画の搬出日にはトラックの運転手を待たせてまで最後の筆を入れました。そして搬出後「やった!」と思った瞬間に精魂尽き果て、気を失ってしまいました。
しかしその瞬間私は「見たっ!」のです。本当のアーティストは命を懸けている、死ぬかもしれないという思いで描いているのです。私は絵描きにならずに本当に良かったと思いました。

教育について

三つの大学で教鞭をとられていましたが、教育で大事なことは?

今一番力を注いでいるのは若い事業家を育てることです。私は、経済、政治の他、歴史、宗教、文化、価値観をこれからの世代にもっと学んでほしいとの想いで、30代〜40代の方々を中心に大学院レベルのリベラルアーツ「島田塾」を運営しています。2週間に一度25名くらいが集まって議論をします。「島田塾」は今年で20年目を迎えます。私は、学生たちと1対1で対話をすることは教育のエッセンスだと考えています。そのため、私はこの「島田塾」を一人で運営することにしています。

高輪地区について

高輪地区について思うところは?

この地域について、私はコミュニティ形成が最も大切だと思っています。特に集合住宅では各戸のつながりが希薄になっていると感じることがあるため、私はポットラックパーティー※を企画して地域の方々と親睦を深めるようにしています。皆さんもそのような取り組みをなされてはいかがでしょうか。

※参加者がそれぞれ料理を持ち寄って楽しむパーティーのこと


取材時の島田晴雄教授

(担当/澁谷、安藤、小林、滝川、松本)

 大使館訪問

ウズベキスタン共和国
Republic of Uzbekistan

  • 面積 44 万7,400 平方キロメートル(日本の約1.2 倍)
  • 人口 約3,390 万人(2021 年: 国連人口基金)
  • 首都 タシケント Tashkent(青森県と同緯度:北緯 41度)
  • 言語  公用語はウズベク語、ロシア語も広く使用される。
  • 宗教 主にイスラーム教スンニ派


Mr.Mukhsinkhuja ABDURAKHMONOV
アブドゥラフモノフ大使

中央アジアのウズベキスタンは、シルクロードの要衝に位置し、古くから日本との交流があっただけではなく、その後も友好関係が続いています。平成3(1991)年に、旧ソ連から独立し、翌年、日本との外交関係を樹立しました。今年は、外交関係樹立30周年を迎えます。
高輪2丁目にあるウズベキスタン大使館を訪問して、令和2(2021)年夏に赴任されたアブドゥラフモノフ大使にお話を伺いました。大使はウズベキスタンの大学を卒業後、国費留学生として来日し、北海道大学大学院博士課程を修了。その後、札幌で会社を経営され、計18年間日本で暮らしていたとのこと。日本語が堪能で驚きました。

注:ウズベキスタンは、本紙第25号(平成26(2014)年発行)に掲載しました。今回は、2度目の掲載となります。


サマルカンド、イチャン・カラなどの世界遺産があります

サマルカンド(世界遺産)

シルクロードのオアシス都市として古くから知られている。青色のタイルで装飾された美しい建物が建ち並んでいて、「青の都」や「サマルカンド・ブルー」などと称される

イチャン・カラ(世界遺産)

歴史遺産都市ヒヴァの内域にあり、旧王宮、モスク、マドラサ(イスラーム教学を学ぶための高等学院)などの伝統建築が建ち並んでいる

 


サマルカンドは、14世紀、ユーラシア大陸の広大な領域をおさめたティムール帝国の首都でした。ヒヴァは、キジルクム、カラクムの2大砂漠地帯の真ん中に位置しています。それぞれの地域には、重要な考古遺跡が点在しています。ぜひ一度、ウズベキスタンの町と歴史ある文化遺産を見にいらしてください。

ウズベキスタンでは、考古学者の加藤 九祚(かとう きゅうぞう)氏(テルメズ市の名誉市民)がよく知られています

諸機関と協力し数々の発掘調査や交流活動に携わりました。我が国の歴史研究に多大な貢献をされ、ドゥストリク(友好)勲章を受章されていて、教科書にも記載されています。今後も、両国研究者の協力により、中央アジアの古代の歴史が解明されていくことを期待しています。

考古学者 加藤 九祚(かとう きゅうぞう)氏の経歴


加藤 九祚 氏


カラテパ遺跡(仏教遺跡)

上智大学文学部卒。創価大学、国立民族学博物館名誉教授。
大正11(1922)年、日本統治下の朝鮮慶尚北道で生まれる。10代の頃、兄のいた山口県に移住。戦争に従軍し、シベリアに5年間抑留されていた。その際、独学でロシア語を習得する。
平成元(1989)年、日本の遺跡調査団長としてウズベキスタンを訪ね、以来27年間、仏教遺跡の発掘及び調査に携わる。平成10(1998)年カラテパ遺跡で巨大なストゥーパを仲間と共に発掘する(4世紀前後の主塔で、7世紀に玄奘(げんじょう)三蔵法師がシルクロードを通った際、立ち寄ったといわれる)。平成28(2016)年、ウズベキスタンで亡くなる(享年94)。

ナボイ劇場は、日本と深いつながりがあります

ナボイ劇場は、中央アジアや中東で最大級の劇場です。第2次世界大戦後、シベリアに抑留されていた日本人の中から工事の要員として約500人がウズベキスタンに送られ、劇場の建設工事に従事しました。
工事に係わった人々は、専門ごとに約20の班にわけられ、陸軍技術大尉永田 行夫(ながた ゆきお)(当時25才)がリーダーとなり、皆をまとめ元気づけて、劇場を完成させました。真面目に働く日本人を見て、食べ物を差し入れたりする町の人もいたそうです。
昭和41(1966)年にウズベキスタンを襲った大地震で、多くの建物が倒壊しましたが、ナボイ劇場は無傷で残り、「日本人が完工に寄与した建物が残った」として関心を集めました。作業に従事した日本人が勤勉で真面目であったということは、今でも語り継がれています。
平成8(1996)年、カリモフ元大統領の指示のもと、劇場の北壁に、日本人が完工に寄与したことを称えるためのプレートが設置されました。


アリシェル・ナボイ記念国立アカデミー大劇場
壮麗なレンガ造りの建物

ウズベキスタンでは、日本語を勉強している若い人が多いです

ナボイ劇場の話はもちろんですが、テレビ番組「おしん」(国民の8割が見た)やアニメなどの影響もあり、日本への関心がとても高いです。民間の日本語学校だけでも約150校もあります。驚かれると思いますが、ウズベキスタンの人口構成は、若い人(40歳以下)が7割を占めるので、この若い人材が日本で活躍できればと思っています。

美味しい果物が沢山あります

晴れの日が多く、メロン、ブドウ、アプリコットなど美味しい果物が沢山とれます。ドライフルーツやナッツもとても美味しいですよ。ただ、内陸国なので、海運による海外との貿易は困難になります。オンライン販売はしていますが、近い将来、日本のスーパーなどで販売できるようにしたいです。


タシケント市内のマーケット、
多様なドライフルーツ、ナッツ類が売られている

取材を終えて

アブドゥラフモノフ大使へのインタビューは、前半は通訳つきでしたが、後半は日本語でのお話で、その堪能ぶりには驚くばかり。大の親日家で、日本で生まれ育ったお子様達は、日本語で物事を考えるほどだそうです。大使としての信条で、赴任する以上は、その国の言葉をマスターするのはとても大事なこととの言葉に感銘を受けました。赴任してまだ半年で、周辺地域のことはまだよく知らないため、これからいろいろ知りたいとのことでした。

(担当/滝川、阿部、松本、小林)

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