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更新日:2022年11月8日

高輪地区の地域情報紙(最新号)

みなとっぷ(47号)の表紙画像

高輪地区地域情報紙「みなとっぷ」第47号

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 地域のあしあと 私たちの街にチンチン電車(都電)が走っていたころ

takanawa01-01.pngかつて高輪地区には5系統の都電が、今の都バスのように地区内を巡り、市民の生活を支えていました。東京に初めて路面電車が登場したのは明治36(1903)年、品川を起点として上野まで開通した(1)系統です。その後大正から昭和初期にかけて、(3)(4)(5)(7)系統と拡張され長く親しまれましたが、自動車の増加による渋滞や遅延、地下鉄の開通、物価統制による運賃の据え置きなど、複数の要因が都電運営を圧迫し、昭和41(1966)年、国の地方公営企業法の大改正に伴う改革で翌昭和42(1967)年12月10日に惜しまれつつも廃止され、今はその面影もありません。(伊皿子線は距離を短縮して昭和44(1969)年10月25日まで運行)

今回は、昭和30年代から廃止までの時期にフォーカスし、当時の懐かしい写真や想い出と共に、私達の街を都電が駆け抜けていたころに想いを馳せてみました。

昭和30年頃の都電利用の想い出

私は私立中学校だったため、「魚籃坂下」、「伊皿子」から「赤十字病院下」まで都電((7)系統)で通っていました。「魚籃坂下」は(4)(5)(7)系統が通り、乗換え停留所として賑わっていました。映画館やお店が立ち並び、停留所の前には模型店があったので、いつも模型を眺めていました。

都電はレールと架線が必要で、交差点にはポイントを切り替える信号塔があり、魚籃坂下の街の姿は何かごちゃごちゃした印象がありました。

また、母と一緒に(7)系統に乗り、「権田原」で降り、よく神宮球場に6大学野球を見にいった想い出があります。家族と一緒に銀座に食事に行く時は、「田町九丁目」から「銀座」まで(1)系統に乗っていきました。運賃は15円くらいで、こどもは無料でした。渋谷、新宿方面に行く時は、(5)系統で目黒まで行き、山手線に乗りました。

戦前、都電のことを市電と言っていたようで、父はよく市電と言っていました。(安藤洋一さん)

上田照彦さん(上田印章店)のお話

takanawa01-02.png昭和36(1961)年、私が高校2年の折に祖父が亡くなり、ひとりで店を維持していた祖母を手伝うために、池袋の両親の元から三田へ移ってきました。

当時、都電は魚籃坂下から(4)(5)(7)系統、古川橋には(8) 34系統と5系統ありましたので渋谷、銀座等どこにでも行けました。私も高校まで古川橋から恵比寿、池袋を経て東長崎まで1時間少しかけて都電通学をしていました。

魚らん商店会も約130店舗あり、賑やかで麻布十番商店街と肩を並べる程でした。

また、魚らん京映では、オールナイト3本立てで日活、東映などの映画を上映し、浪曲、講談を楽しめる演芸館も近くにあり、夜は11時ごろまで人通りがあり、商店も9時、10時まで営業していました。

金型や機械部品工場が何軒もあり、その町工場で働く人達で活気に溢れていました。

品川方面からの魚籃坂は都電で一番きつい坂なので、雪のときは立往生し、砂を撒いて登っていましたが、ときには電車が3台繋がることもありました。

後記:魚籃坂下緑地噴水の横の高輪側都道に、今も都電のレールが埋まっていますよ。

「信号塔」って? なぜ「チンチン電車」?

大正14(1925)年10月、初めて半蔵門にポイントを切り替えるための信号塔が設置されました。高さ約5m、60㎝角の柱の上に約半畳の部屋があって、中には、電動式のレバーと交差点内の視界が一目でわかるように反射鏡も取り付けられていました。

この部屋では転轍手(てんてつしゅ)が始発から終電まで瞬時も休まずポイント操作をしていました。設置されたレバーは交差点内に設けられたギアボックスの中のチェーンに直結されていて、電動式にポイントのレールを操作していました。

この信号塔ができる前は、巡査と転轍手が交差点の真ん中に立ち信号とレール操作をすべて手動で行っていました。

昭和27(1952)年頃から信号塔の無人化が研究され、架線上に取りつけられたスイッチをパンタグラフがたたいて操作する方法で路面電車が交差点内で左右に方向を変えられる様になり、のちに魚籃坂下交差点にも設置されました。

都電が停留所を発車するときに車掌が運転士に送る「発車オーライ」の合図のベルの音が「チンチン」です。ひもを引いて両端の運転台のベルを鳴らします。

その他、乗降車客がいないときの通過の合図など車掌と運転士の間で鳴らすベルの音「チンチン」をとって「チンチン電車」と呼んでいました。

(参考:イカロス出版「懐かしい風景で振り返る東京都電」、JTBキャンブックス「都電が走った街 今昔 激変の東京-定点対比30年」)

街が変わる高輪ゲートウェイシティ(仮称)文化創造棟

JR東日本の高輪ゲートウェイシティ(仮称)のまちづくりにおける文化創造棟での各種プログラムの企画・運営を担うための組織として、一般財団法人 JR東日本文化創造財団が、令和4(2022)年4月1日に設立されています。
同財団の文化創造棟準備室長の内田まほろさんはじめ、同準備室の方々から文化創造棟についてお話をうかがいました。

建物の構成

建物は地上6階、地下3階で、高さは約45m、延床面積は約2万9,000平方メートル。海から風が抜けるよう高さを低くおさえています。令和7(2025)年度中に開業を目指しています。

「100年先へ文化をつなぐ」をコンセプトに展覧会、ライブ、パフォーミングアート、学びなど文化フォーマットに対応する場となります。外装のデザインは隈研吾建築都市設計事務所により、街のシンボルとなるようデザインされています。緑と木によって形づくられたスパイラルにより、建物全体で日本の四季を表現しています。

内部はBOX300、BOX1000、BOX1500など大小の様々な空間があり、展示、ライブイベント、パフォーマンスなどに対応しています。各BOXは、財団が自ら企画した大きなテーマに基づいたプログラムを開催する予定です。

4階には約100畳のたたみのスペースがあり、茶道、華道、ヨガなど新旧の文化に親しむ場となります。屋上は四季とともに活動する場として、水盤をあしらい、水面に映る月を眺める月見や、花見などのイベントがある憩いの場となります。また、まちの夜景を楽しむこともできます。1階エントランス前には高輪築堤の遺構がある公園が出来る予定です。

地域との関わり

takanawa02-02.png財団は地域との関わりを大切にしたいと考えており、いくつかのプランを考案中です。

建物全体の緑化は、環境にやさしく、日本の四季を表現できますが、一方、樹木や花をきちんと維持管理するのが大変です。ぜひ、地域の方々にご参加いただきたいと考えています。

樹木は鉢ごとに植えられる計画もあり、地域の方々が自分の鉢を育てるつもりで樹木を見守っていただくような仕組みも検討中です。

また、地域の歴史や文化に関わるテーマを、地域の学生や団体などとコラボで開催したり、地域のアーティストたちと一緒に一つのテーマで棟全体を使ったイベントなどを行うことも考えられます。

財団では、「文化創造棟」が、「過去から学び、新しい文化を創り、未来につなげる」を軸にすべての人が共に楽しみ学べる文化交流の場として育つことを目指しています。

取材をおえて

文化創造棟が完成すると、大きなコンサート、展示、イベントに接することができ、また、屋上から月や夜景を見るのも楽しみです。何かわくわくしますね。

文化創造棟準備室のスタッフみなさんからの丁寧な説明に感謝。

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所属課室:高輪地区総合支所協働推進課地区政策担当

電話番号:03-5421-7123