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國分 晃(こくぶ あきら)さん
(国分グループ本社株式会社 社長)
プロフィール
昭和46(1971)年生まれ。
平成6(1994)年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、ネスレ日本株式会社に入社。
その後、平成10(1998)年に米国ノースウエスタン大学経営大学院、ケロッグスクール経営学修士号を取得。
同年、国分株式会社に入社し、平成16(2004)年に取締役に就任。平成29(2017)年より、国分グループ本社株式会社の代表取締役社長執行役員経営統括本部長兼COO。
「300年以上続く会社をしっかり継承していきます」
300年以上前に創業した国分グループ本社株式会社(日本橋1-1-1)へおうかがいして、國分晃社長にお話をお聞きしました。
もともとは、伊勢・松阪(現在の三重県松阪市)で商売をしていましたが、正徳2(1712)年、4代目國分勘兵衛が江戸に出て、常陸の国新治郡(現在の茨城県土浦)で醤油の醸造を行い、日本橋のほぼ現在の場所で販売を始めました。その後、明治維新の時に醤油の醸造をやめ、広く食の卸売業を始めました。大正12(1923)年、関東大震災で店舗を消失しましたが、復興に向けて、清涼飲料水や醤油の供給に尽力しました。
昭和22(1947)年、現・国分グループ本社株式会社の基となる國分漬物株式会社を設立し、さらに社名を株式会社國分商店、国分株式会社と変更、平成28(2016)年、国分株式会社をエリアごとに分社しました。グループを統括するのが、国分グループ本社株式会社となります。
グループ会社はおよそ50社です。国内の卸売事業を7つのエリアに分けて、独立採算のエリアカンパニーとしています。
業種が食品卸売業なので、すべてのカテゴリー商品を取り扱っています。またメーカー部門では、K&Kブランドの缶詰やtabeteブランドのだし麺、クリエイトブランドのヨーグルトなどのほか、お菓子、パン粉、総菜、輸入洋酒など、さまざまな自社ブランド商品を取り扱っています。海外にも、中国、ベトナム、マレーシア、シンガポールなどに関連会社があり、事業を展開しています。
これらの会社を統括していくのは大変ですが、非上場の会社なので、長期的な視点に立ち、私たちが思い描いた戦略を、しっかりと推進できることはありがたいです。
江戸時代の日本橋の様子。蔵には創業時の屋号「大国屋」の亀甲大の印が見える
社是は「信用」、企業理念は「継続する心、革新する力~300年間紡いだ商いを次世代に繋げていく。私たちは食を通じて世界の人々の幸せと笑顔を創造します~」です。
グループ全体の令和5(2023)年度売上高は2兆円を超え、経常利益額は242億円となりました。アフターコロナで人流が戻り、経済が回り始めたおかげです。
5年毎に長期経営計画を策定し、4つの目標を掲げています。
慶應義塾大学スキー部に所属し、日吉の合宿所でしごかれましたが、よい仲間に恵まれ楽しい学生生活を過ごしました。
卒業後、神戸のネスレ日本株式会社に就職しました。しばらくして阪神淡路大震災に遭い、東京に転勤になりました。
その後、米国ノースウエスタン大学大学院に留学し、経営学を学びました。いろいろな国の学生と一緒に共同研究を行い、世界の人々の考え方の違いに驚きながらも、大変勉強になりました。寝る間もないほど忙しかったですが、今思えば、自由で最高の2年間でした。
私が、家とビジネスとが表裏一体であることを感じたのは、大学2年、20才の時の祖父の葬儀でした。
従業員やお取引先など、多くの人が参列しているのを目の当たりにして「自分の祖父が、というよりビジネスの中心にいた人間が亡くなったのだ」と思いました。そして父がその後を継ぐ。その次は自分、家とビジネスは一体なのだと肌で感じました。
父は現在、国分グループ本社株式会社、代表取締役会長で「第12代國分勘兵衛」の名前を継承しております。
歌舞伎役者の襲名とはちがって、戸籍を変えることになります。本籍地は三重県にあるので、そこまで行き、いろいろ手続きをしなければなりません。
國分家が高輪の今の場所に住んだのは、大正12(1923)年の関東大震災の後で、およそ100年前です。私は一時期、近くのマンションに住んでいましたが、今は敷地内の二世帯住宅で、父の家族と一緒に住んでいます。
高輪は大好きです。毎日の通勤や地方、海外の出張に行く時もとても便利です。みどりが多くあり、自然環境にも恵まれています。環境がよいので、よく犬と近くを散歩します。お祭など町会や神社の行事が活発なのもよい点です。一方、高輪ゲートウェイの開発で、近くに高いビルが多くでき、今までの良さが失われないようにしなければいけませんね。
お忙しい中、われわれの質問に詳しくていねいにお答えいただき、感謝いたします。國分晃社長の今後一層のご活躍を期待します。
(担当/安藤、川野、阿部、飯島、小林、清水)
都市災害として警戒されてきた地震と火災に加え、近年は水害に備える必要性も高まってきました。白金地域でも古川の洪水被害が発生したこともあり、地下に巨大な水槽が建設されています。それが、東京都が建設した「古川地下調節池」です。
白金5丁目にある施設の管理棟を訪ね、管理にあたっている東京都第一建設事務所工事課の楯(たて)課長をはじめ、職員の方々に施設の概要と機能についてうかがいました。
調節池トンネル内の様子
都内にはいくつかの河川があり、過去に水害が多かったのが神田川流域(神田川、善福寺川、妙正寺川など)です。古川でも水害があったことから、平成20(2008)年に古川地下調節池の整備事業が決定し、平成30(2018)年に運用を開始しました。
施設の原理は簡単で、豪雨などによって川の水位が一定以上になった場合、護岸に設けられた取水口から水を取り入れ、地下40mに建設された巨大な円筒状の空間(トンネル)に水を貯めるというものです。雨が収まり川の水位が低下したのちに、貯まった水を排水口のポンプでくみ上げて、川に排水します。
調節池のトンネルは、延長3.3km、内径7.5mと巨大です。このトンネルで貯めることのできる水量は13.5万㎥、1時間当たり50㎜の降雨にも対応できるように計画されました。洪水時に取水した水は40mの地下に落ちて貯留し、雨が収まり川の水位が低下したのちに、麻布十番の位置に設けられたポンプで下流に排水されることになります。
郊外の河川では、地上部を掘削する掘り込み式の調節池を整備する場合がありますが、都心のように空地が極めて少ないケースでは、地形的条件から地下に整備します。このために総工費も約270億円(地上の用地取得費用も含む)を要したそうです。
豪雨時の運用にも細心の注意が払われています。水位が一定値を超えた場合は調節池に流入しますが、その状況を、中央区明石町にある第一建設事務所および都庁のモニターで監視しています。また、古川地下調節池にもモニターの監視施設があり、正常に機能しているか常時確認しています。
歴史的に、古川は何度か水害に見舞われており、平成11(1999)年には、浸水面積15.6ha、浸水家屋627棟の被害が出ました。調節池の完成後、今年7月の豪雨で初めて施設を稼働、その翌月の8月に調節池の容量のうち約30%を取水し、河川の水位を低下させる効果を発揮しました。
近年、さらに局地的な集中豪雨が増しており、古川地下調節池の存在は治水対策として地域の安全に寄与しているといえるでしょう。
取水施設外観
古川は、起点がJR山手線渋谷駅前というまさに都市河川です。渋谷区内の2.4kmが「渋谷川」、天現寺橋から下流の港区内になると「古川」と名称が変わります。古川としては4.4kmの長さで、かつては、水運を利用した地域の産業発展に貢献したそうです。また、特徴の一つとして、ほとんどの区間が川の上空に首都高速道路が建設されていることが挙げられます。このため、調節池のある部分は川の上下にコンクリート構造物があるという珍しいケースになります。なお、調節池を管理している第一建設事務所の職員によりますと、川には小さな魚のほか、ウナギも見受けられるということでした。
(担当/阿部、安藤、大友、小林、平尾)
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所属課室:高輪地区総合支所協働推進課地区政策担当
電話番号:03-5421-7123
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