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更新日:2023年12月22日

活動報告会

 令和5年8月26日(土曜)に平和のつどいを開催し、事前研修、港・千代田・品川3区合同平和交流会の成果を報告しました。

報告 報告書

日時

 令和5年8月26日(土曜)午後2時から5時まで

会場

 リーブラホール(みなとパーク芝浦1階)

活動報告

港区語り部の会との交流~現代を生きる使命~

 港区語り部の会の方との交流は、平和青年団として初めての活動であり、これから学ぶ戦争のリアルに私たちを引き込む機会となりました。
 「日本は勝つと思っていた。」これは、語り部の皆さんが口々に仰っていた言葉です。疎開や空襲、町に転がる数々の死体など、言葉では聞いても全く想像がつかない惨状は、信じたくない事実でした。今では考えられないような状況でも、当時の国民は当たり前に勝利を信じていたことに、私は大きなショックを受けました。
 また、当時は徐々に変化する状況に気づかないまま戦争を受け入れ、適応していったと仰られていました。気づかぬうちに平和な日々が蝕まれていることを、当たり前だと受け入れてしまうことが真の恐ろしさだと気づかされました。
 戦争を無くすにはどうしたらいいか。この答えは、戦争を経験した方でも分からないそうです。ただ、平和を築く上で大切なのは、世界の文化を知ることだと力強く伝えていただきました。戦時下を生きていた頃は、世界について何も知らなかった。だからこそ戦争が終わり、物事を様々な角度から考えるようになったといいます。
 現代では、ロシアとウクライナの戦争のように、情報の操作がいとも簡単に行われてしまいます。SNSが発達した時代だからこそ、一つの情報に捉われず自ら事実を掴もうとする意識が重要なのだと考えます。
 私たちは今、数多くの核保有国に囲まれ、常にその脅威と隣り合わせでいます。被爆という過去を持ちながら、与えられる平和に満足している現状があると思います。無関心という壁を乗り換え、皆が自分のこととして捉えた時、持続的な平和に繋がります。忘れないだけでなく、伝え続ける、それが日本に生まれた使命だと思い、これからも強く発信していきたいです。

 

都立第五福竜丸展示館見学

 私は、原爆について学校の教科書やメディアでよく目にしていましたが、原爆投下後も原爆実験や水爆実験が行われていたことについて学ぶのは、初めてでした。
 第五福竜丸は、マーシャル諸島で米国が行った水爆実験の影響を大きく受けたマグロ漁船です。乗船していた乗組員の放射線障害、漁獲類や水の放射線汚染により放射線の被害が日本国内で注目されるきっかけともなりました。これは、当時あまり理解されていなかった広島や長崎の原爆被爆者への共感、そして反核運動へつながっていきました。第五福竜丸に乗っていた方々の証言や被爆された乗組員の久保山さんの容体が大きく報じられたのです。そしてこの事実を知って、国民の苦労をお金で解決しようとした当時の日本政府やアメリカ政府の対応に衝撃を受け、全く納得がいきませんでした。
 ワークショップでは、乗組員の方々の証言や、真っ赤に染まった空を見上げ騒ぐ姿、楽しげに突然降ってきた放射性降下物を、害があるとは知らずに集めるマーシャル諸島の子どもたちの様子、また放射能の影響で髪の毛が抜け、肌が焼け、食欲がなくなるなどの症状があったという、貴重なお話を聞くことができました。水爆実験の瞬間の、船の乗組員の方達が感じた恐怖、不信感がわずかですが伝わりました。また、日本のことだけではなく、その他の地域で行われた水爆実験、マーシャル諸島の人々の様子など、核実験の状況や歴史も展示されていました。日本は唯一、原爆が投下された国として、原爆についての授業や学習は幼いころから丁寧に行われています。『世界』平和を目指す私たちにとって、日本だけでなく世界に「原水爆の被害者は私が最後にしてほしい。」という、久保山さんの想いと核の恐ろしさを次世代へ伝えることを使命とし活動しなければいけないと思いました。

 

昭和館の見学~昭和という時代と私たち

 昭和館は、戦中・戦後の暮らしについて展示物や写真を通して伝えている施設です。特に戦地に行かない女性や子どもたちに関する資料が多くありました。防空壕のように暗い中で爆弾の音を聞く体験ができる場所もあり、今まで知らなかったことを見て、学ぶことができました。
 展示室に入ると、まず「家族の別れ」のブースを見ることができます。当時の徴兵の様子として、赤紙やお守りのための千人針、「祝出征」と書かれたのぼりなどが展示されています。当時は兵士になり戦場へ行くことは、名誉で素晴らしいことだったようです。私は、このことに強く違和感を覚えました。本当は、自分の夫や息子を危険にさらしたくはなかっただろうと思います。
 さらに進むと昭和初期の家具や生活用品があります。そしてその生活が戦時に移っていく様子も表されています。当然ですが、今とは全く違った暮らしを送っていたのがよく分かりました。また、展示の中で印象的だったのは、戦争への協力を求めるポスターやプロパガンダ、子どもへの軍国主義的な教育です。戦争ごっこをする子どもの写真もありました。このように国民の戦意を高揚させることの恐ろしさを感じました。
 展示の後半では、戦後について取り上げています。戦争が終わってもなお、多くの人が生活に苦しみました。普段注目されることは少ないですが、学ぶべき内容だと思いました。人々が労苦を乗り越え、復興と発展に向かう様子を見て、ようやく少し安堵しました。
 見終わって感じたことは、現代の私たちと戦中・戦後を生きた人々の隔たりともいえる環境や経験の違いです。それが、戦争や平和の意識を伝えていくことの難しさになっていると考えました。実際私自身、戦時の写真を見てもそれが現実ではないように感じるときがあります。しかしそんな中でも戦争の記憶を途絶えさせないようにすることが、私たちの役目だという思いが強まりました。

 

しょうけい館の見学~しょうけい館見学を経て感じたこと~

 しょうけい館では、戦争で負傷された戦傷者が体験した戦中、戦後の苦労についてや、当時身に付けていた物、治療に使われた義足や義眼、また社会復帰の様子、そして現在までの様々な写真、映像、体験資料を見学しました。
 ご本人や家族の証言から、どのような人生を歩み、その苦労を知ることができました。私はたとえ「戦争」が終わっていても、そこで負傷された兵士やその家族、戦争を体験した方々にとっては、生涯死ぬまで「戦争」が続いているのだと思いました。
 それは、戦争によって受けた傷を今も抱えて生きていることが分かったからです。負傷した腕や足を切断され、義足や義眼をつけた慣れない生活をしなければならなかったご本人はもちろん、彼らの支援をしていたご家族も同様です。また、戦争で亡くなった方のご遺族は周りから「おめでとうございます」と言われた一方で、負傷した彼らや家族は周りから歓迎されないという現実もありました。私たちは、戦争があったと過去の出来事として捉えるのではなく、このように今でも苦しんでいる人がいるという戦争の後の出来事も知るべきだと思いました。
 そして私は、館内の野戦病院のジオラマコーナーを見て、衝撃を受けました。そこには、痛みに耐えながらもがき苦しむ兵士や、その周りには倒れて横たわる見放された兵士がいました。その様子が音声でも流れていて、リアルなジオラマを今でも忘れられません。
 見学を終えて私は、これからも苦しみながら生涯を過ごされる方がいることを深く理解しました。今を生きる多くの人が、戦争の事実を学び、同時に戦争を体験された方の心情に寄り添い、理解することを積極的に行うことが大切だと強く思うようになりました。

 

ウクライナからの避難者の方との交流と手話の勉強会

 第4回事前研修では、ウクライナから日本に避難されてきた方から、ご自身の戦争下での経験を伺う貴重な機会をいただきました。それまでの研修で戦時中の生活を学んだ時よりもさらにリアルに感じられ、実際に今、戦争が起きた時に、どんな混乱に陥るのかが手に取るように想像でき、恐ろしかったです。戦争が起こると、社会機能がストップしたり、人々が混乱し、メディアには多くの情報が溢れます。炎の中にある故郷で過ごすか、何とか、国外に避難できたとしても、難民としてストレスフルな生活を送ることになります。戦争が起きた時、一番犠牲になり苦しむのは一般市民なのだと再認識しました。私が今、家族、お金、家、そして明日の命の心配をすることなく毎日を過ごしていることのありがたさを改めて痛感すると同時に、戦争はしてはならないという思いがより強くなりました。
 そしてもう一つの研修は、団員の増成りささんによる手話の勉強会が開催されました。私は今まで、手話に興味を持ったことがありませんでした。しかし、いざ手話を教えてもらうと、言葉を発さずとも意思疎通ができる楽しさや、手話で通じ合えた嬉しさを感じられ、手話が好きになり興味が沸いてきました。増成さんが、私たちがよく使う言葉や平和に関する言葉、私たちの名前を選んで教えてくれたからかもしれません。
 この研修を通して、戦争は、価値観の違う者同士がお互いを敵視しあっている状態で勃発するものだと思います。人間は、一人ひとり価値観が異なりますが、それを乗り越えて気持ちを通わせることができるはずです。私が手話で通じ合えた嬉しさを感じたように、沢山の人が、様々な考えの人と心を通わせられた時の嬉しさや達成感を得られたとしたら、平和に少し近づけるのではないかと思います。

 

港・千代田・品川3区合同平和交流会(第1部)~平和交流会第1部~

 今までに自分が学んできたことや4回の事前研修を通して、戦争について多くとは言わずとも、知っているつもりになっていました。しかし、今回の活動で本当は学ぶべきことがまだまだ沢山あることに気づかされました。
 港・千代田・品川3区合同平和交流会の第1部の疑似体験プログラムでは、私たちが78年前にいることを想定して、時の流れと状況を体験しました。部屋の中で行い、頭の中で想像するという簡易的なものでしたが、様々な事を考えるきっかけとなりました。
 まず初めに、空襲警報が流れ、防空壕の中に避難して空襲の構えをとります。この時の空襲の構えとは、鼓膜が破れないように親指で耳を塞ぎ、気圧で眼球が飛び出さないように瞼を強く閉じ、耳を塞いでいる親指以外の4本の指で目を覆い、口を開けて、頭や体を守るために下を向くという姿勢でした。この姿勢になった時、私は恐怖で頭の中がいっぱいになりました。聞こえる音は空襲警報のみ、目を閉じているため、たったひとりでその場にいるような気持になりました。五感が制限されている中で、空襲警報が鳴りやむのをただただ願い、待っていることしか出来ませんでした。これが時間帯を問わず、一日に何回もあると思うだけで、全身の力が抜けるような感覚になりました。
 この経験で私は、戦争を再度、自分事として捉えられたような気がします。ここまで学んだのは、苦しさや辛さ、悲しさなどです。しかし、怖さというものの存在があることを認識しました。いつ攻撃されるか分からない、大切なものが失われていく、そんな怖さがそこにはあることを感じました。
 もうこんなことが起きてはならないとみんなが思うはずなのに、実現できない世界に疑問が浮かびました。

 

港・千代田・品川3区合同平和交流会(第1部)~疑似体験で感じた原爆の恐怖~

 港・千代田・品川3区合同平和交流会の第1部では、ワークショップや原爆についての学習を行いました。
 一番印象に残っているのは、ワークショップです。
 ワークショップでは、三色の付箋を渡され、それぞれに大切な人・物・場所を記入しました。すると突然、サイレンの音が室内に大きく響き渡り、「空襲によって公共施設や娯楽施設が焼けてしまいました。」と言われ、私の手元から高校や高校の友人を書いた付箋がなくなりました。その後も空襲は続き、サイレンの音を聞くたびに、次は何がなくなってしまうのだろうと思い、恐怖が胸に広がりました。そして、「原爆が投下されました。あなたは防空壕から出ると、あなたの家は原型がなくなり瓦礫の山となっていました。家族は空襲から身を守る姿勢のまま焼けただれていました。」その言葉で、唯一残っていた自分の家と家族を書いた付箋がなくなりました。
 私は、中学校で関東大震災の被災者の方から聞いた「なぜ自分だけ生きているのか。」という言葉を思い出しました。自分にとって大切な人や物などが全て消えたら、その現実を受け入れて生きていけるのかと考え、改めて被災者の言葉を深く理解できました。そして今まで平和関連施設で見た、戦争体験者などの証言が残されているのは、とても貴重なことで、それらを忘れないように伝承していきたいと思いました。
 今までの施設巡りやこの疑似体験で学んだ悲劇は、二つの原爆によって起こされたことです。現在、原爆は世界中に12,520個もあるのです。私たちは原爆の悲惨さを踏まえて、自分なりに平和とはどういうもので、これからどうアクションを取っていくべきか、人に任せるのではなく、自発的に考えるべきだと思います。

 

長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の中継視聴(港・千代田・品川3区合同平和交流会(第2部))~長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典視聴~

 長崎派遣に向けて、都内で平和学習を重ねてきた私たちにとって、台風の影響で派遣が中止になり、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参列できなくなったことは予想外であり、とても残念でした。
 長崎派遣に代えて、同じく長崎に行く予定であった品川区と千代田区のメンバーたちと港区役所で、長崎平和祈念式典を視聴しました。式典会場には、手話通訳がいるのは分かっていましたが、果たして全国放送の映像に入れてくれるのか、字幕があるのか、自分がきこえる人と同時に理解できるのか、不安がありました。
 そこで前日、過去の長崎と広島の平和祈念式典の映像をYouTubeで見て当日に備えました。映像はいくつかありましたが、会場にいるはずの手話通訳者が映ってなかったり、抜粋した一部のみを映していたり、字幕が付けられていなかったり、このような事があっていいのかと衝撃を受けました。文字や手話通訳などの視覚情報がないと内容が分からない人が存在するとは考えが及ばないのでしょうか。
 当日の長崎平和祈念式典のライブ映像は、全部ではありませんでしたが、字幕があり、手話通訳も映っていました。私は音声認識アプリを使って、手元のスマホに文字を起こして、字幕や手話通訳がついていないところの内容も知ることができました。そこで、改めて思いました。毎年8月に行う平和祈念式典は何のためなのかと。平和祈念式典は、二度と戦争を引き起こしてはいけない、核の恐ろしさや平和の大切さを日本から世界へ広めて、多くの人に知ってもらうためではないのか。外国人向けには、英語の副音声があったと家族から聞きました。しかし、字幕や手話通訳などの視覚情報が十分でない状況は、それを必要としている人が取りこぼされています。このような状況は、平和ではありません。平和とは、この世の人々が平等な立場で共存していることだと強く思いました。

 

長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の中継視聴(港・千代田・品川3区合同平和交流会(第2部))~長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を視聴して~

 黒服に身を包んだ被爆者・遺族の方々、後ろで静かに並んでいる数多くの白菊、スクリーンの前に自分がいるとはいえ、会場の厳粛たる雰囲気に呑まれてしまいました。あの白菊に一人一人の被爆者のみならず、あの戦争で悲劇を目の当たりにした方々の思いが詰まっていると思うと、思わず下唇を噛んでしまう思いでした。
 私が式典に臨んで感じたことは、戦争はまだ終わっていないということです。78年の歳月が経った今もなお、あの惨劇を忘れることなく、後遺症やあの時の悪夢に苛まれている方々がいることを知りました。それでもその方々は、自身の課せられた「後世にあの悲劇を繰り返さないために伝承する」という責務と向き合っている事実に対して非常に感銘を受けました。そして同時に、自分が平和青年団であるにも関わらず、太平洋戦争の沖縄戦や東京大空襲、長崎・広島の原子爆弾投下を過去のものとして認識していたことに気づきました。このような惨劇を、過去のものとして扱ってしまうから、戦争で被害に遭われた方の平和に対する想いが自分の中で弱くなってしまうのだと気づきました。
 私は、ただ可哀想だと思ってしまうと、次に未来にどう平和を求めればいいのか、分からなくなってしまうのだと思いました。私の平和な世界を実現することに対する思いや意識の足りなさを実感しました。
 長崎への原子爆弾投下を過去のものにしてはいけないけれど、だからと言って相手を永遠に憎んではいけないと思います。私たちが憎むべきは戦争であり、平和な世界を阻むものです。そのためには記憶を過去のものにしない、これが第78回長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典から感じたことです。亡くなられた方を可哀想だと思うのではなく、忘れないことを心がけて生きていく事が大切だと思いました。

 

港・千代田・品川3区合同平和交流会(第3部)~平和交流会第3部~

 この活動では、私たち港区平和青年団と同じような活動をする同世代の学生と交流することができました。本来なら、長崎派遣で現地の学生を含めた大規模な交流会を実施する予定でしたが、台風の影響で中止になってしまいました。私は、生まれてから一度も広島と長崎を訪れたことがありません。中学生の頃も修学旅行で広島へ行き、原爆ドームなどを訪れる予定でしたが、コロナ禍のため行き先が変更されてしまいました。だからこそ、今回の派遣を本当に楽しみにしていたのですが、中止になってしまったことが非常に残念です。しかし、小規模とはいえ、これからの未来を描く若者たちが一堂に会し、議論をしたことはとても大きな意義があると思っています。
 「微力だけど、無力じゃない」これは、私が考えた言葉ではありません。私たちと同じような活動をしている高校生平和大使のスローガンです。私たちのような学生が、どうしたらこの世から戦争をなくせるだろうか、と議論しても世界に変革をもたらすことは困難でしょう。現にウクライナでは、多くの命が奪われています。しかし、私たちの活動をある新聞社が取り上げてくれたことを知りました。メディアがこうした活動を発信し、多くの人に知ってもらうことは、社会に平和への想いを伝えられていることであり、無力ではないと思います。
 現在の日本は平和だと感じます。質の高い教育を受け、文化的な生活も保障されています。しかしこの平和が第二次世界大戦、そして原爆投下や被爆という沢山の人たちの命や生活の犠牲の上に築かれていることを理解し、世界が原爆の恐ろしさを忘れないために、この活動を通して学んだことを発信していかなければならないと再認識しました。

 

港・千代田・品川3区合同平和交流会(第3部)~平和会議~

 港・千代田・品川3区合同平和交流会が港区役所で行われました。4~5名のグループに分かれ、意見交換を行いました。私のグループには、台湾人の私の左にはアメリカ、斜め向かいにはフィリピンに住んだことのある人がいたので、アンバサダーのような気分でした。交流会は、「嘘つき自己紹介」というアイスブレイクから始まりました。自分に関する「嘘のエピソード」と「本当のエピソード」を準備して、どちらが本当かをメンバーに当ててもらいながら自己紹介をするというゲームです。「嘘つき自己紹介」で少し和やかな雰囲気になったところで、次に戦争が起きる理由を各自で付箋に書き出し、グループ分けをしていきました。戦争はスケールが大きいため、喧嘩が起きる原因に置き換えると考えやすかったです。これは戦争の原因を体系的に見つめ直す機会になりました。
 最後に、戦争の原因を理解したうえで、それを無くす方法について話し合いました。私は、国際関係の場面でBalance of Power(国際秩序の維持)は常に流動的なので、文字通りの「平和」は訪れないと発言しました。一方で、メンバーからは、「戦争が皆無になる日は訪れないかもしれないが、戦争を減らすことはできるはずだから、その方法を考えよう」という提案を受け、戦争を無くすのではなく、減らす方法をみんなで考えました。
 まず、核兵器について議論になりました。無くす「核兵器禁止条約」が意見として挙がった一方、核を賢く配置することは、Balance of Power(国際秩序)の安定化につながるという意見もあり、議論が深まりました。結論として、どちらにしても大切なのは、「対話」であるとの意見にまとまり、戦争を減らす方法を段階的に比較的に考える貴重な時間となりました。

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