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更新日:2012年3月30日

汐留(しおどめ)

「汐留」の地名は、江戸城外堀と海を仕切る堰が「土橋」に設けられていたため、ここからは海の水が外堀に入り込めない、つまり「汐が留まる」ことから付近の地名として使われるようになったものです。

これは、寛永年間(1624年~ 1644年)以後のことで、「汐留」の名は、近世とともに生まれたといえます。

徳川家康の江戸入府以後の町作りによる埋め立てによって陸地化した汐留地区に、初めに屋敷の拝領を受けたのは龍野藩脇坂家で、寛永9年成立の『武州豊島郡江戸之庄図』に初めてその名が記されています。その後も埋め立て工事は引き続き行われ、寛永16年に会津藩保科家、同18年には仙台藩伊達家が屋敷地を拝領し、江戸幕府解体まで続きました。

大名屋敷の敷地は広大であり、これまでの区内の大名屋敷の発掘調査は、その敷地の一部を調査するに留まっていました。しかし、汐留での発掘調査が行われ、藩邸の全面を調査することができることで、これまでつかみ切れなかった江戸藩邸の全体像をつかむことができると期待されていました。

発掘調査の結果、各藩邸地の造成に伴う土留めや棚、建物跡、井戸や木樋等の上下水道施設、地下室や埋桶等の埋設施設、池跡、鹿芥留め等の土杭、石垣等多種多様の遺構とそれに伴う多量の遺物が検出されています。

江戸に置かれた各藩の屋敷には、大藩では常時千人を超えるような家臣が居住していたといわれ、参勤交代による藩主の江戸在府時には、それ以上の家臣が生活していたことになります。これらの屋敷には、各国元から大量の物資が送られてきたことは想像に難くありません。脇坂・伊達・保科の3 藩の屋敷地は、海に直接面していることから、屋敷内に「船入」が設けられ、船で運んできた物資を、直接海から陸揚げすることができました。

また、人々の流入により人口は増大し、百万都市江戸は当時世界最大級の消費地として、さまざまな生産物資が全国各地から海と陸を使って運ばれました。遺跡から出土した遺物は、海路・陸路によって産地や国元から直接邸内に運び込まれたものと、邸内に居住するもの等が、必要に応じて江戸市中で購入したものです。それらの遺物は、江戸時代に各藩邸に生きた人々の生活の証しといえるでしょう。

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