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更新日:2026年4月3日

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芝地区の地域情報誌(最新号)

 芝の古刹 廣度院(こうどいん)の「練塀(ねりべい)」が語る徳川の威信と家族の物語


廣度院を囲む練塀

東京タワーの足元、都会のオアシス・芝公園。かつてこの一帯はすべて増上寺の広大な境内でした。近代的なビル群の谷間に、都会の喧騒(けんそう)を忘れさせるような、奇跡的に江戸の風景を留める場所があります。増上寺の「塔頭(たっちゅう)※」と廣度院(こうどいん)を取り囲む、土と瓦が織りなす美しい縞模様の壁、「練塀(ねりべい)※」です。

練塀は単なる遺構ではありません。戦火と都市開発の波を越え、父から娘へ、そして地域へと受け継がれた「不屈の祈り」そのものです。廣度院の副住職・西城千珠(さいきせんじゅ)さんに、この壁と家族の物語を伺いました。


西城千珠副住職

焦土(しょうど)※に見た夢と、学問による復興

廣度院の歴史は古く、増上寺とともに室町時代の明徳4年(1393)にさかのぼります。徳川将軍家の菩提(ぼだい)寺・増上寺が芝の地で威容(いよう)を誇った江戸時代、この練塀は広大な境内を守る「砦(とりで)」として、また聖域を分かつ厳格な結界として存在しました。

しかし、先の大戦がすべてを変えました。豪華絢爛(けんらん)な御廟(ごびょう)※も五重塔も焼失。廣度院も堂宇(どうう)※を失いましたが、表門と練塀だけが、炎の中で黒く焼けただれながらも立ち尽くしていました。

「祖父は、トタンで囲った門の中で家族を守り抜き、最後は栄養失調で亡くなりました」と西城さんは語ります。

跡を継いだ父・峰島旭雄(みねしまきょくゆう)住職(25世住職)は、戦後、練塀の門を寂しげにくぐる祖父の夢を何度も見ていたと言います。父は「学びの場」であった寺の原点に立ち返り、寄付に頼るのではなく、自らの知識と教鞭(きょうべん)で得た収入で寺を再興する道を選びました。静寂の中、父の膝の上で、一心に調べ物をして原稿と向き合うその姿を見て育った西城さんにとって、練塀は父が語る「増上寺の歴史そのもの」であり、家族の暮らしを守り抜いた証でした。


廣度院表門


本堂に掲げられている「山号:三縁山」「院号:廣度院」の扁額

大門を救った「知恵」の壁

高度経済成長期、道路拡張計画により増上寺のシンボル「大門」と廣度院の練塀に撤去の危機が迫ります。

この時、父・旭雄住職は一歩も引かずに動きました。「練塀を国の登録有形文化財にすれば、手出しはできない」。その機転は、練塀を守っただけでなく、道路拡張そのものを事実上不可能にし、結果として「大門」の存続をも決定づけました。かつて寺を守るための物理的な防御壁が、現代においては法律という盾を使って、芝の未来へ続く景観だけでなく、まちの歴史や文化をも守り抜いたのです。

「江戸城の壁」であることの証明

令和に入り、隣地の再開発に伴い、再び練塀に危機が訪れます。しかし、これが驚くべき発見につながりました。

「この壁は、熱田神宮にある『信長塀(のぶながべい)※』の系統なんだ」─生前、父はそう語っていました。その言葉通り、解体調査によってあらわになった内部構造は、単なる土壁ではなく、瓦と土が幾層にも重なり合う極めて堅固なものでした。

それは、発展系である江戸城の構造と酷似しており、徳川幕府の棟梁(とうりょう)・甲良(こうら)家が手掛けたものと同様の精緻(せいち)な工法であることが判明したのです。「関東大震災でも壊れなかった」という父の確信は、科学的に証明されました。空襲の焼夷弾(しょういだん)で赤茶けた瓦の奥には、数百年もの間、崩れることなく層を成してきた職人たちの技と知恵が眠っていたのです。

こうした江戸城の練塀と同様の内部構造が、確認できる形で現存している例は全国的に唯一です。廣度院ではその学術的に貴重な断面の特別公開や講座なども行われており、本物の歴史を見学できる点では非常に特別な場所といえるでしょう。


近づいて見ると、練塀の構造がよく分かります


練塀の内部構造

未来へ埋め込む「宝物」

「父が守れと言った意味を、今ようやく理解しました」と話す西城さん。現在、増上寺の協力を得て「練塀勉強会」を定期的に開催しています。

建築家や歴史研究者、そして地域の人々が集い、毎回驚くような新発見が生まれています。「瓦と土が織りなす内部構造は、息をのむほど美しい層を描いていました」。崩したはずの壁の中から現れたのは、江戸の美意識そのものでした。

閉じられた防御壁から、開かれた交流の場へ。父が守り抜き、娘が光を当てたこの壁は、過去の記憶を封じ込めた巨大な「タイムカプセル」です。その扉は今、多くの人々の手によって少しずつ開かれ、芝のまちに新たな物語を紡ぎ始めています。


歌川廣重の浮世絵「江戸名所 芝増上寺」。三解脱門から立ち並ぶ練塀と大門。左一番手前が廣度院
(出典:西城千珠所蔵)

用語解説

  • ※塔頭(たっちゅう):大寺院の敷地内にある小寺院や別坊のこと。
  • ※練塀(ねりべい):土と瓦を交互に積み重ねて固めた塀。耐久性が高く、防火・防弾の役割も果たした。織田信長が桶狭間の戦勝礼として熱田神宮に奉納した『信長塀』や石清水八幡宮の『信長塀』の系統とされる。
    • 熱田神宮、岩清水八幡宮の「信長塀」……分類上は「築地塀(ついじべい)」だが、土の中に瓦を層状に挟み込むことで、鉄砲の弾も通さない強度と耐水性を誇る。最初から表面の土が剥がれ瓦のしま模様が見えるように作られている。
    • 廣度院の「練塀」……廃瓦と粘土を積み上げた純粋な練塀。信長塀以上に瓦がびっしりと詰まった幾何学的な断面をもち、徳川幕府が用いた、江戸の工法を今に伝える都内でも希少な文化財。
  • ※焦土(しょうど):戦争や火災で焼け野原になった土地のこと。
  • ※御廟(ごびょう):貴人の霊を祀る建物。ここでは増上寺にあった徳川将軍家の墓所を指す。
  • ※堂宇(どうう):寺院の建物、お堂のこと。

INFORMATION

浄土宗 三縁山 廣度院 芝公園1-8-16
https://neribei.com/(外部サイトへリンク)

 

取材:森 明/早川 由紀 文・写真:早川 由紀

 しばあるき 冬の芝、あたたかい寄り道(浜松町~芝)

浜松町から芝へ。冷たい風の中を歩きながら、区の施設に立ち寄ってみる。かつて学び舎があった場所、歴史の痕跡が残る通り、地域の人が集うカフェ。外は寒くても、芝のまちには思いがけない“あたたかさ”があった。


「福澤近藤両翁学塾跡」の石碑


かつての学び舎を伝えるエリアの風景(エコプラザ)


コットンの綿繰り展示コーナー

学びの跡地で、静かな時間に触れる

浜松町方面から歩いていると、「福澤近藤両翁学塾跡(ふくざわこんどうりょうおうがくじゅくあと)」と刻まれた石碑が目に入る。このあたりは、かつて慶應義塾が置かれていた場所だという。現在は港区立エコプラザとなり、環境学習や地域活動の拠点になっている。

エコプラザは、地球環境や持続可能な暮らしについて学び、考えることができる区の施設だ。館内には環境をテーマにした展示やワークショップスペース、そして図書コーナーがある。この図書コーナーには、環境や社会、暮らしに関する本が1500冊以上そろっているという。

棚を眺めていると、専門書だけでなく、子ども向けの絵本や写真集も並び、世代を問わず手に取りやすい構成になっていることがわかる。木の机と椅子が並ぶ空間は、どこか教室のようで、懐かしくあたたかい。静かにページをめくる人の姿を見ていると、この場所が単なる展示施設ではなく、日常の中に溶け込む“学びの拠点”なのだと感じられる。

外の冷たい空気とは対照的に、ここには静かでやわらかな時間が流れている。歴史ある土地で、いまもなお「学ぶ」という営みが続いていることに、少しうれしくなった。

歴史の道を抜けて、地域のぬくもりへ

エコプラザを出て3分ほど歩くと、神明いきいきプラザに着く。途中には、赤穂藩森家上屋敷跡(あこうはんもりけかみやしきあと)があったことを伝える掲示板もあり、何気ない道のりの中でふと歴史に出会う。


歴史を伝える掲示板(赤穂藩森家上屋敷跡)

一階のカフェスペースは、地域の人の交流の場になっている。この日はバレンタインデーにちなみ、オペラケーキとカフェモカを400円で楽しめた。窓際に腰を下ろしていると、同施設で講座を担当しているという方が声をかけてくださった。講座の話や芝のまちのことを自然に語り合う。初対面でも会話が弾む、そんなあたたかくゆったりとした空気がここにはある。


バレンタイン限定のオペラケーキとカフェモカ


交流の場となっているカフェスペース


持ち帰ったレシピカード

帰り際、配架されていたレシピカードを1枚持ち帰った。今夜はそこに載っていたサバの生姜照りソースを作ってみよう。散歩の時間が、そのまま日常へとつながっていく。まだまだ寒い季節。けれど芝のまちは、外を歩くだけでなく、中に入ることであたたかさに出会える。冬の芝は、思っているよりやさしい。

 

取材・文・写真:白坂 亜優奈

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所属課室:芝地区総合支所協働推進課地区政策担当

電話番号:03-3578-3192

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