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トップページ > 芝地区総合支所 > 暮らしの情報 > 芝地区の地域情報誌(最新号)

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更新日:2025年7月31日

ページID:12073

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芝地区の地域情報誌(最新号)

 芝の老舗 芝の食生活を支える八百屋「八百新」

東京タワーのビュースポットとして人気のある三田通り。慶應義塾大学の東門やビルが立ち並ぶこの通りから、東方向の日比谷通りへ向かう細い道を入ります。この通りはかつて「いろは通り」と呼ばれ、個人商店が軒を並べるにぎわいのある芝三丁目の商店街でした。現在は店の数は減りましたが、昔ながらの建物がいくつも残っています。まるで映画『ALWAYS 三丁目の夕日』のような昭和の雰囲気が漂っています。

緑と白のストライプオーニングが目印の八百屋「八百新」は、まちの人々の食生活を支えています。お店では、新鮮野菜と果実以外にも、毎朝豊洲で仕入れている鮮魚も売られています。ほかにも卵、練り物や漬物、調味料などもそろっています。木曜日には牛肉や豚肉も販売。縁起のよい仏花もあります。近隣の住民はもちろん、飲食店のオーナーが自ら買い物に立ち寄る、まちの人々のニーズが詰まったお店です。創業77年を迎えた「八百新」代表の雑ざ喉こ谷や勝かつ蔵ぞうさんにお話を伺いました。

八百屋の1日は朝3時から始まる

毎朝3時に豊洲市場に出向く勝蔵さん。5時頃には仕入れた食材の荷下ろしをします。それを待ち受けて手伝うのは次女の保屋野公子(ほやのきみこ)さん。荷下ろしが終わると配達です。休む間もなく、7時半になると勝蔵さんは魚を仕入れに再び豊洲市場に向かいます。8時になると公子さんが店を開きはじめます。勝蔵さんは豊洲市場から戻ってからも、午前中のうちに次の日の注文を市場にFAXを送ったり、残りの配達を済ませたりしなければなりません。勝蔵さんの奥さまの千津子(ちづこ)さんと娘の公子さんは、次々に買い物に来るお客さまに対応します。

三田綱町からのお客さまでしょうか。必要な食材を指さし、お札1枚を置いて「いつでもいいので配達よろしくね」と帰っていきます。おしゃべりに花を咲かせるお客さまに千津子さんが相槌を打ちます。勝蔵さんのお孫さんが通う赤羽小学校の子どもたちは、野球のバットやミットを持って、お店の周りで元気に遊んでいます。すっかり日が暮れた19時すぎには、片づけをはじめ、「八百新」の1日は終わります。穏やかなまちの一角で日々変わることなく、「八百新」はお客さまを迎え続けてきました。

裸一貫ではじまった「新蔵の八百屋」

店の名前は、勝蔵さんの父である「新蔵(しんぞう)」の「新」に由来します。雑喉谷新蔵は大阪から裸一貫で上京。戦前は浜松町の八百屋で奉公をしていました。戦後は自ら大八車を引いて野菜などの販売を始めます。戦後も配給制度が続き、政府が特定の店舗に品物を配給し、国民は配給券などを提示して必要な物資を購入するという仕組みでした。そこで、昭和23年(1948)、いろは通りに八百屋「八百新」を創業。戦後の売り手市場の時代を経て、店舗販売、三田綱町屋敷の御用聞き、日々の配達と、実直に商いを続けていきました。

勝蔵さんは昭和18年(1943)生まれ。「子どもの頃は、よく父親の大八車について歩いていた」と思い出を語ります。高校卒業後、長男として「八百新」を継いだ勝蔵さん。「昭和33年(1958)に、今の店に建て替えた。東京タワーが完成した年だからよく覚えている」と、建て替え前の店が写った白黒写真を見せてくれました。1枚は父親の新蔵が写っている写真です。もう1枚は幼い頃の勝蔵さんが従兄弟と一緒に写っている写真です。写っている店横の柱からは「いろは通り」の文字が読み取れます。

「いろは通り」の由来は、明治中頃に横丁の入口右角に「いろは」という立派な骨組みの大きな料理屋(牛鍋屋)があったことだそうです。そしていつの頃からか「いろは横丁」と呼ばれるようになりました。昭和30年(1955)頃には「いろは通り」となり、商店街として賑わっていました。今でも毎年秋に「いろはまつり」が開催され、「八百新」が提供する焼き芋は大人気となっています。

ちなみに、ここの町会名は「北四 国町会(きたしこくちょうかい)」といい、江戸時代初期から三田通り一帯に四国四藩(阿波の徳島藩、土佐藩、讃岐藩、伊予藩)の屋敷が隣接していたことに由来します。北四国町会の「年納めもちつき大会」でもほかほかの焼き芋を提供し、まちの人々をあたためています。

いいものを安く便利に

勝蔵さんと千津子さんとの間には3人の娘さんがいます。それぞれ嫁ぎましたが、千津子さんと公子さんが店を切り盛りしています。お二人はとても聞き上手。「毎日いろいろなお客さまが情報を提供してくれるので、身のまわりに役立つ情報が多くて助かります」と笑顔で話してくれました。「港区から出たことがないのよ。みんな優しいし、毎日忙しくてあっという間の日々」と話す千津子さん。「芝は交通の便が良く、生活するのに便利なんです」と公子さん。

長くお店が続く秘訣を伺うと、「買い物に来られるお客さまと仲良くなって、いろいろな話をすること。いいものを安く便利に提供すること」と勝蔵さん。例えば、取材の時、勝蔵さんは春が旬のタケノコの下処理をしていました。皮付きのまま売るだけでなく、お客さまの利便性を考え、一つひとつ皮をむきゆでたものも店で販売しています。ゆでたての新鮮なタケノコはすぐに売り切れます。学校から帰ってきたお孫さんは友だちと自転車で遊んでいますが、その元気な声をBGMに勝蔵さんは黙々と皮をむく作業を続けます。

芝三丁目の一角に、時の流れに寄り添うように佇む「八百新」。家族の手から手へと受け継がれてきた、あたたかな営み。そこには、昭和の面影と、今を生きるやさしさが、静かに息づいています。勝蔵さんの確かな目利きと、細やかな心配りが、日々の食卓を豊かに彩り、港区の暮らしを支える存在として、今日も地域に寄り添い続けています。

取材:森 明/早川 由紀  文:早川 由紀

INFORMATION

八百新 芝3-28-3
TEL 03-3451-7378

 イルミナト ピープル 光に満ちあふれた方から私たちへのメッセージ

ジャズってね、たとえ間違えてもそれを足がかりにして新しい世界を創り上げるとても自由な音楽なのね。

ジャズシンガー 大野 えりさん

―今日はよろしくお願いします。まず自己紹介をお願いします。

大野 : 初めまして。大野えりです。ジャズ歌手をやっております。24歳で日本コロムビアからデビューしました。以来45年間、歌い続けています。今日はよろしくお願いします。

―大野さんがデビューした1970年代は女性ジャズボーカルの黄金期だったそうですね。なかでも、すごい実力派シンガーがいるとデビュー前から話題になっていたと聞きました。上京当時、港区に住んでいたとのことですが、芝地区に思い出はありますか。

大野 : 芝地区だと…そうですね、昔ラジオのレギュラーをしていたときに、1~2週間に1回ぐらいのペースで、制作会社のある三田に収録に通っていましたね。また、今も港区役所の目の前にある、プリンスホテルのプール会員だったの。東京タワーを眺めながらプールで日焼けを楽しんで(笑)。いい時代でしたね。

―芝地区はなんと子どもが増えている地域でもあります。メッセージをいただけますか。

大野 : そうねえ、自分を周りと比べないってことでしょうか。比べるなら自分の昨日と今日、そして明日のみ。そして失敗を恐れないでほしいですね。ジャズは、音で対話をしながら進行していくんだけど、人は誰でも間違えることがあるってことを肯定して、相手を全部受け止めて、たとえ間違えたとしても、それを足がかりにして、新しい世界を創り上げるというとても自由な音楽なのね。

―大野さんが芝地区に期待することって何ですか。

大野 : 今の若いミュージシャンは、優秀な人が多いんですが、ジャズを聞く若い人は少ないんです。だから、若者のジャズを知ってもらうためのイベントを芝地区のお寺などで開催するのはいかがでしょうか?

―では最後に。今回の「しばタグ」は、7月に発行されるのですが、夏におすすめのジャズナンバーを教えてください!

大野 : まず、ジョアン・ジルベルトも歌っている『エスターテ』(イタリア語で夏)という曲と、ジャズピアニストの板橋文夫さんが作った『渡良瀬』という曲をおすすめします。特に『渡良瀬』は、シンプルな歌詞なんですが、歌っていくうちに深さが理解できてきて。あともう1曲は、同じく板橋さんの『グッバイ』という曲でしょうか。ジャズのスタンダードナンバーって、昭和20年(1945)前後にできた曲が多いんです。歌詞は、また会いましょうとか、元気で帰ってきてほしいといった内容が多い。それは要するに、戦場に向かう男たちを見送る歌だからなんですね。この曲は私が歌詞を付けたんですが、ちょうどその時に外国で戦争があったので、同じ気持ちで『グッバイ』の歌詞を書きました。21世紀を平和にしたいという思いを込めてね。

―ありがとうございました! これからもがんばってください。

大野 : ありがとうございました。

聞き手・文:逸見 チエコ

大野(おおの)えり

昭和30年(1955)1月23日生まれ 愛知県名古屋市出身

同志社大学英文学科卒業。大学で軽音楽部に入り、在学中からライヴ活動を開始する。大学3年の時、山野BIG BAND コンテストで審査員特別賞を受賞。卒業後、何のつてもなく上京し、都内のあらゆるジャズクラブを飛び込みでまわる。そして1年も経たない昭和54年(1979)に、日本コロムビアよりアルバム『Touch My Mind』でデビュー。以後、ハンク・ジョーンズ率いる The Great Jazz Trio との共演盤を含め、8枚(日本コロムビアでは7枚)のアルバムをリリース。そのほか、DJ KRUSHのアルバムへの参加、『ルパン三世』のエンディングテーマ、TVCM曲『真っ赤な太陽』など多岐にわたり活動。現在は、インディーズレーベル「K・I・A Record」を立ち上げ、7枚のアルバムをリリース。精力的にライブ活動で全国各地を飛び回るほか、ボイストレーニングの講師なども務め、多忙な日々を送っている。

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