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トップページ > 芝地区総合支所 > 暮らしの情報 > 芝地区の地域情報誌(最新号)

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更新日:2025年3月18日

ページID:12073

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芝地区の地域情報誌(最新号)

芝の老舗 自転車店 シクロサロン

昭和2年築の「シクロサロン植原」

芝五丁目の慶応仲通り商店街。道幅3mほどの狭い路地に、飲食店を中心に店がひしめき合っている。この通りに、昭和2年築の家屋があります。軒先には、自転車がモチーフの金具につるされた真っ赤なハートの看板。CYCLOSALON UEHARA※1。スポーツ用自転車のオーダーメイド専門店です。

※1:Cyclo(シクロ)はフランス語で「自転車」の意味。

自転車愛の博物館

1階は店舗。レトロな木枠のガラスの引き戸を開くと、天井から床まで、自転車のクラシックパーツやオーダーメイドの自転車が所狭しと並べられています。壁のあちらこちらに、自転車の形をした時計や、自転車関連グッズ、歴代オリンピック種目のポスターなどが飾られています。自転車愛好家にはたまらない博物館のような雰囲気です。

2階の自宅にも自転車ラベルの空き瓶や自転車をデザインしたネクタイ、昭和39年(1964)のオリンピックのポスターやゴールの写真などが多数飾られ、自転車愛にあふれた博物館のようです。


1973年「東京―大阪タイムトライアル」で新記録を打ち出した橋本治選手の監督として伴走車から指導をする写真や、港サイクリングクラブの写真など、自転車人生の軌跡があふれる店内


三田に住んで85年。戸籍は東京府東京市芝区生まれ

白いおにぎりと自由な世界を拓く自転車

オーナーの植原郭(うえはらかん)さんは、昭和15年(1940)に芝区で生まれ、この家で育ちました。もともとは、郭さんの祖父栄助(えいすけ)が、明治40年(1907)に芝区三田四国町に創業した町工場でした。

植原家は江戸時代、安房勝山(現千葉)で代々庄屋を務めていました。明治35年(1902)に上京した栄助は、芝区本芝入横町にある、叔父の池貝庄太郎(いけがいしょうたろう)が経営する池貝工場※2に入社。5年間の修行後、「植原鉄工所」を設立し、自宅兼工場で家族とともに営んできました。その後、父正雄が工場を継承。主に池貝鉄工の下請工場として稼働し、戦時中は軍の要請でフル稼働していました。

戦前戦中の記憶はおぼろげですが、避難した防空壕(ぼうくうごう)の壁に飛行機の絵を描いていたそうです。戦後、芝区周辺は半分焼け野原でしたが、工場のある芝区の一部は戦火を免れました。

昭和26年(1951)、2つ歳上の兄が中学通学のため三田通りにあった高橋商店で自転車を買うと、店主の高橋長敏さんが創立した「港サイクリングクラブ※3」から「自転車遠乗会(とおのりかい)のお知らせ」が届くようになりました。当時、白いご飯のおにぎりをもって、日曜日ごとに自転車で颯爽(さっそう)と出かけて行く兄がうらやましかったそうです。

2年後、郭さんが戦前より工場で使っていた自転車を引っ張り出し、兄の後ろについて、サイクリングに参加。おにぎりのおいしさと自転車が精神的にも、地理的にも自由な世界を拓いてくれることを知りました。以来、自転車業界に深く関わり、サイクリング文化の発展に大きく貢献していくことになります。

※3:日本有数の歴史を誇るサイクリングクラブで、令和6年(2024)に75周年を迎えました。郭さんは、昭和40年(1965)クラブの事務所を引き継ぎ、現在は会長を務めています。

二刀流の先駆け

昼は実家の工場で働き、夜は三田高校の定時制へ。定時制は4年制で、3年生から4年生の時は、昼間に慶應義塾大学の学生部で健保の窓口業務を勤め、夜は学校へ。

慶應義塾大学への入学を薦められましたが、兄と同じ法政大学へ。

大学卒業後、東証2部上場の丸石自転車(株)に就職。当時の自転車業界は通勤通学用自転車の買い替え需要が主で、全体の保有台数から考えればもはや飽和状態でした。「これからは自転車競技・サイクリング用のスポーツ車の開発とPRが必要」と考えた郭さん。入社まもなく「これからはスポーツです」と言って社内を歩きましたが、当時はあまり聞いてはもらえませんでした「。それならいっそ自分でやって見せる」と3年で退社。昭和44年(1969)、自宅の玄関の一部を改装し、スポーツ用自転車のオーダーメイド専門店「シクロサロン」を開店しました。

郭さんは先見の明がありました。昭和50年頃、あるメーカーが本格的なランドナー(旅行自転車)を発売。その人気に、各社がスポーツ車の開発に目を向けるようになりました。

丸石自転車から直々にオファーがあり、嘱託契約社員としてスポーツ車開発チームに加わることに。シクロサロンの経営も伸びていましたので、今の「二刀流」を選択。その理由は「一台一台設計図を描くのもいいけれど、一枚の設計図を描いて、何千台もの自転車が走ることにつながる魅力は、別の楽しさ」だったそうです。

それから2年後に発売されたスポルティーフ(快走自転車)は、予想以上の大ヒット商品に。それに引っ張られて同じシリーズのランドナーやロードレーサー(競技用自転車)も売れて、15年間丸石自転車で働きました。その傍ら、サイクリング専門雑誌などから依頼があり、学生時代から執筆の依頼も続きました。サイクリング、自転車メンテナンス、コースガイドなどの原稿を書いてきた郭さん。講談社スポーツシリーズ『スポーツサイクリング』を加え、書店に並んだ自転車関連の著書は10数冊になりました。その知識と経験は多くのサイクリストにとって貴重なものとなっています。

おにぎりがうらやましく、自由に憧れた少年は70年、サイクルツーリストとして走りつづけています。


フルオーダーは注文してから早くて2か月。ときには納品まで1年もかかるものも。自分の名前をフレームに刻むことも可能で、理想の自転車が手に入る喜びは何物にも代えがたい


自転車をバラしては組み立て、また新しい部品を付け替えていく。そのうちに古い部品が集まり、その余った部品を使って自転車をもう一台組み
上げることもできる。そうして出来上がり、日々のメンテナンスで50年以上乗り続けている郭さんの愛車

エンジンは自分

自転車は人類が考え出した、人間の力がフルに活かせる初の乗り物です。その歴史は、1817年にドイツのカール・フォン・ドライスが足蹴り式の二輪車「ドライジーネ」を発明したことから始まります。1860年代にはフランスのピエール・ミショーが前輪にペダルを取り付けた自転車を開発。1885年にはイギリスのジョン・ケンプ・スターレーがチェーン駆動の「セーフティバイシクル」を発明しました。1888年にはアイルランドのジョン・ボイド・ダンロップが空気入りタイヤを発明し、乗り心地が大幅に改善されました。

日本には、1860年代に初めて自転車が持ち込まれました。明治末期から大正期にかけて、自転車は富裕層の間で人気を博しました。戦後の高度成長期には、庶民の交通手段として広く普及。1960年代には実用車が主流となり、1980年代には、健康志向の高まりとともにサイクリングブームが到来。

ロードバイクやマウンテンバイクが人気を集めていく歴史とともに、サイクリングの普及と発展に、中心人物として貢献してきた植原郭さん。自転車を列車に持ち込む際の規則や、「サイクルトレイン」などのサービス普及、競技自転車の一般化、ロードバイクやマウンテンバイクなどが多くの人々に楽しまれているのも、郭さんのような「エンジンは自分」と、自ら世の中をこいできた人物がいるからでしょう。

「日本の5万分の1地形図に地名が書いてある山・峠・高原にはおそらく4,000ヵ所くらいは登ったように思います。途中で寄った城跡は北海道から沖縄まで3,600超。まだまだ行ってみたい城跡はたくさんあります」と穏やかな口調と笑顔で語る郭さん。自身の愛車は3台で、イギリススタイル※4のものです。郭さんのエンジンはまだまだ芝から日本全国を駆け巡ることでしょう。

※4:イギリスは丘陵地帯を走るために、起伏の多い地形に対応するため、頑丈で安定性の高いフレームが特徴。ギア比が低く設定され丘陵地帯でも楽に走行できるツーリングバイク。


自転車を選んで走り続けてきたのは、自分の体力・能力・技術を最大限に発揮して、自分の限界を打ち破ることに喜びを感じ、次々と新しい世界を拓いていく醍醐味があるから

INFORMATION

シクロサロン植原
港区芝5-20-22
TEL 03-3452-6968

取材:森 明/ 早川 由紀 文:早川 由紀

Shiba Topics 「ダメでも落ち込んでも、人生は愉快に続いていく」落語が教えてくれたこと

笑福亭 羽光(しょうふくてい うこう)さん インタビュー

――今日はよろしくお願いします。まず自己紹介をお願いします。

羽光:しばタグさんでは初めましてですね。笑福亭羽光と申します。52歳です。現在真打で、笑福亭鶴光の弟子でございます。今日はよろしくお願いします。

――港区に思い出などはありますか。

羽光:34歳までお笑い芸人をしていたんですが、六本木のアマンドに近いビルで管理人のバイトをしていました(笑)。飲食店などのテナントが入った雑居ビルで、鍵の開け閉めや、ときどき防火水槽をチェックしたりするだけの仕事でしたが、管理人室にずっといないといけなくてその間、ネタを作っていました。

――羽光さんといえば、独特な世界観の新作落語が人気です。当時のネタづくりが今に生きてるんですね。

羽光:そうですね。10年くらい続けましたよ。漫画原作者もしていたのですが、やはりここでシナリオを書いて。

港区の思い出といえば、六本木ヒルズの外で人に見られながら収録の待ち時間にネタ合わせをしたり。

ヒルズはお金持ちの象徴というようなイメージがあったので、売れてのし上がりたいという気持ちでやっていましたね(笑)。

ゆりかもめに乗ってTV局にネタ見せに通ったことなど、けっこう思い出があります。

落語家になってからは、学校講演などで離島を訪ねる際に竹芝からフェリーに乗って行きます。古典落語の「芝浜」はこのあたりだったと思うと感慨深いものがありますね。

――芝地区は江戸時代の風情の名残が残る地域です。落語には江戸の人々の生活がそのまま描かれているのでしょうか。

羽光:当時は火事が多かったので「二番煎じ」や銭湯に行く「湯屋番」などがあります。銭湯は、庶民の交流や情報交換の場なんです。落語は人と人との触れ合いからお話になっていきます。

狸がしゃべったりする世界なので実際の江戸とはだいぶ違いますが、末広亭(新宿区)の楽屋にはどんと大きな火鉢が置いてあって、落語に出てくるご隠居の家にそっくりなんです。誰がどんな演目をやったかを書いていくネタ帳は墨で書きますし、太鼓があるし、落語家も三味線の人も毎日着物で生活している。江戸時代にタイムスリップしたような気分になります。

――高座のめくり(出演者の名前や演目を書いた台)の寄席文字は独特ですよね。

羽光:文字を太く、なるべく隙間なく書くんです。これは、隙間なくお客さんが入りますようにということなんです。太鼓の音にも意味があるんですよ。開場時間に叩く一番太鼓では「どんどんどんとこい、どんとこい」とたくさんのお客さんに入ってほしいという願いが込められているんです。落語家が座る座布団は、縫い目のない方を客席に向けるんです。これも、お客さんとの縁が切れないように、との願いから。ほかにもあるんですが、こういった習慣は江戸時代から続いてきていて。縁起をかつぐことを大事にする教えがありますね。

――面白いですね!羽光師匠は以前「落語の世界に癒された」とお話されていましたが、どんなところにでしょうか。

羽光:「寛容さ」でしょうか。落語には先ほどもお話した狸や狐や長屋の店子や大家や商店の若旦那など、あらゆる人(動物)が登場しますが、そこそこ悪人は居ても、極悪人は出てこない。そして悪人にも愛嬌がある。例えば借金を踏み倒したりする人がいても、大家さんが「しょうがないなあ」と許してたり、寛容なんですよね。遊びに行くときはマヌケな泥棒も連れて、みんなで行く。切り捨てたりしないんです。

人間は本来ダメな存在で、だからこそ人間ですよね。ダメでも落ち込んでも、人生は続いていく。そんな普通の人に脚光が当たっているのが落語です。のらりくらりと生きる登場人物たちが僕は好きだし、だからこそ現在まで残っているんじゃないかと思ったりしますね。

「安心できる世界」。これこそ現代の人には必要なのではと、昨今のSNSを見て思ったりもします。

――では最後に、芝地区の良いところをお願いします。

羽光:竹芝のフェリーをもっと知ってもらいたいですね。あれは安全だし楽しいし。外国の方にも竹芝から離島に行くコースをもっとアピールして、楽しんでもらえたらいいんじゃないかな。

住んでる人の約4倍の人口が芝地区の会社に毎日通ってきているということなので、懐が大きい地区といえますね。ここが落語と芝地区の共通点かなと思いました。

――ありがとうございました!これからも頑張ってください。

羽光:ありがとうございました。

 

笑福亭 羽光

本名:中村 好夫(なかむらよしお) 1972年9月24日生まれ 大阪府出身
1998年 4人組お笑いユニット「爆烈Q」として活動開始
講談社週刊少年マガジンの第35回ギャグマンガ新人賞をきっかけに、「のぞむよしお」のペンネームでマンガ原作者としての活動開始
2007年3月に爆烈Qを解散し、4月笑福亭鶴光に入門。6月に落語芸術協会にて前座となる

2011年 二つ目昇進。古典&新作落語家として全国で活動
2013年 第12回さがみはら若手落語家選手権優勝
2013年 第24回北とぴあ若手落語家競演会大賞
2018年 渋谷らくご大賞創作大賞
2020年 NHK新人落語大賞
2021年 5月真打昇進、真打披露興行
笑福亭羽光 - 協会員プロフィール|落語芸術協会

聞き手・文 逸見チエコ

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