更新日:2026年7月17日
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芝地区の地域情報誌(最新号)

歴史探訪 愛宕山幻影

公園、愛宕館、愛宕塔
明治時代、愛宕山が公園になり、山上に貸席と料理、後にホテルとなった愛宕館、さらに望遠鏡付八角形の高さ約30mの5階建て愛宕塔が建設されました。この愛宕塔の望遠鏡で白髪(しらが)の妖怪が人の内証事(ないしょごと)をのぞいていた、との幻想小説を小説家、泉鏡花が書くほど珍しい塔でした。


芝および愛宕山公園計画
明治6年(1873)明治政府は、各地の景勝地(けいしょうち)を人々が散歩し、楽しみ、健康の助けになる公園とすると布達(ふたつ)を出し、東京では金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)、東叡山(とうえいざん)寛永寺、三縁山(さんえんざん)増上寺、富岡八幡社地(しゃち)などが公園になりました。
この流れの中、明治19年(1886)に愛宕神社ほか氏子(うじこ)総代3名が「芝区愛宕神社境内公園地開設願(かいせつねがい)」を提出し、東京府知事から「芝愛宕神社境内ヲ以テ公園ト爲(な)シ、愛宕山公園ト稱(しょう)ス」と告示(こくじ)されました。
その後、明治43年(1910)に東京市公園改良設計調査報告書が作られ、芝公園と愛宕の高丘(たかおか)を連結すれば、空のはてまで百萬都市を眺(なが)められるとして、愛宕山から歩道をつづけ芝公園に向かって陸橋を設ける計画案が出されましたが、実現しませんでした。
愛宕館 愛宕塔
明治19年、愛宕山公園内に庭園を設け、内外貴客紳士(ききゃくしんし)の休憩、集会などに利用する建物の「地所拝借願(はいしゃくねがい)」を、芝田町・山田忠兵衛(米穀商(べいこくしょう)、東京府議会議員)、三田・松山棟庵(とうあん)(医師)、芝浜松町・子安峻(こやすたかし)(読売新聞社長)、三田・谷元道之(たにもとみちゆき)(東京馬車鉄道創立者)、愛宕町・三潴(みずま)謙三(医師)、露月町・小松崎茂助(洋サーベル劔西洋小間物商)、芝金杉浜町・田嶋安太郎(たじまやすたろう)(東京商工銀行取締役)らが提出し、東京府が許可しました。山田忠兵衛が館長に、松山棟庵、田嶋安太郎、芝三島町・阿藤重兵衛(鉄物商)、三田・手塚長八(質屋)、葺手町(ふきてちょう)・山崎塊一(やまさきかいいち)(薬舗)、西久保桜川町・石丸安世(やすよ)(芝区会議員)らが幹事となり、当時としては珍しい有限会社愛宕館を設立しました。世間では「芝区有志の倶楽部(くらぶ)」と呼んでいたようです。
愛宕館は、淡黄色のペンキで塗り2階建て、窓のガラスが美しく、西洋料理、貸席として使用されました。
愛宕塔は、5階建て、頂きに避雷針、八角形のろうそく型、煉瓦(れんが)に白壁をほどこし、らせん状に上ります。望遠鏡は最上階にあり、その眺望は、「遠くに房総半島の鹿野山(かのうざん)、鋸山(のこぎりやま)が見え、浜離宮の松緑(まつのみどり)、右に芝濱(しばはま)にある製造所の煙突(えんとつ)、海水浴場、東北に汽車が進行する新橋停車場、左に農商務省、日本銀行、帝国ホテルなどの建物、遥(はる)かに厩橋(うまやばし)の煙突、浅草凌雲閣(りょううんかく)などの屋根、北にニコライ会堂など、西北に星岡山社(ほしがおかやまのやしろ)、溜池」が見えたそうです。
設計は、愛宕館が伊藤為吉と慶應義塾福沢諭吉の甥、工部大学校造家科を卒業した藤本寿吉(ふじもととうきち)、および愛宕塔が平野(佐藤)勇造と伝えられています。
愛宕館から愛宕山東京ホテルへ
明治24年(1891)5月に愛宕館で、6代目尾上梅幸(おのうえばいこう)の幼名改名の際の披露が行われ、また新富座で地元応援の『愛宕館芝浦八景』が演じられました。明治27年(1894)に改進党、明治28年(1895)の政友有志会など幾度と政治集会に利用されました。
創業時の愛宕塔、愛宕館は賑わったようですが、明治29年(1896)3月愛宕館の館長が山田忠兵衛から田嶋安太郎に交代し、有限会社愛宕館は4月に解散しました。その後、同年5月鉄道に関わる野田益晴(のだますはる)が愛宕館を譲り受けています。
明治35年(1902)4月に衆議院議員日向輝武(ひなたてるたけ)が愛宕館を買い、営業主任に有楽町にあった東京ホテルの主人山崎武八郎がなり、愛宕ホテルと改称して内外人旅宿、和洋料理、貸席などの営業を開始しました。
日向輝武はアメリカに行き、ハワイで移民事業に従事し、帰国後、衆議院議員になった人物です。
山崎武八郎は、ロンドン・パリにて修行した西洋料理のシェフで、明治28年『日用(にちよう)西洋料理法』という料理本で、自(みず)からを「東京ホテル館主」と名乗っていました。有楽町東京ホテルの所有者は横浜の旅館鹿嶋屋の山室貞次郎で、山崎武八郎は経営者でした。
横浜の新聞社Japan Gazette 社が発行したThe Japan Directory(在日外国人名鑑)に、明治36年(1903)Hotel Atago-kan(ホテル愛宕館)、さらに明治38年(1905)TOKIO HOTEL Atago Hill Park、愛宕山東京ホテルとして広告を出しています。また、明治38年4月に「棉花栽培(めんかさいばい)協会創立協議会」が「愛宕山東京ホテル」で開催されたとの報道が残っています。次の愛宕館の変転は、明治39年(1906)11月30日付官報、第7027号に掲載されました。
東京市芝区商号登記簿第一冊第四一号
1 商号 東京ホテル
1 営業ノ種類 旅人宿営業
1 営業所 東京市芝区愛宕公園三番地
1 商号使用者ノ氏名住所 栃木県那須郡佐
岡町大字佐久山九十三番地
坂巻正太郎
この坂巻正太郎は、「22歳の時に渡米。サンフランシスコにてホテル業を学ぶ。帰国後は金谷カテッジインにて通訳兼支配人を勤め・・・中禅寺湖畔にレーキサイドホテルを開業」した人物です。
明治40年(1907)の「最近東京明覧」の旧名の愛宕館の項目では、宿泊料は1等1泊7円、2等5円、3等4円、晩食(ばんしょく)料金1円とあり、愛宕山東京ホテルは、当時西洋式ホテル施設が少ない中、高級ホテルに列せられています。
明治41年(1908)横浜のThe Japan DirectoryにもTokyo Hotelとして記載され、明治45年(1912)のツーリストビューロウの創立総会の参加者名簿に坂巻正太郎(東京ホテル、レーキサイド)とあり、さらに大正3年(1914)The Japan DirectoryにTOKYO HOTELとShaw Sakamaki, Proprietor(坂巻/ 正、所有者:著者註)と載っていることから、坂巻が経営していたとみられます。
一方、愛宕塔は明治40年に1度閉じられたようですが、翌年8月に再開しています。
愛宕山東京ホテルはさらに所有者が変わり、大正8年(1919)芝公園・松尾寛吾が東京市へ愛宕公園1号地の旅館営業の建物敷地としての使用願を出しました。
また、大正9年(1920)6月12日付の朝日新聞には、「当館・・・賃貸のご相談に応ず御希望の向は同事務所へ御来談を乞う 愛宕山公園内愛宕館」とあり、広告では東京ホテルではなく愛宕館の名前を使用していました。
大正5年(1916)に泉鏡花は、愛宕塔の望遠鏡を仕掛けにして人の心をのぞくという幻想小説『星の歌舞伎』を書きました。愛宕塔で創作意欲を掻き立てられたのでしょうか。
愛宕山東京ホテルから東京放送局に
愛宕山東京ホテル、愛宕塔は、明治27年6月20日東京地震、大正11年(1922)4月26日浦賀水道地震で各々被害をうけるも修復し、持ちこたえてきましたが、大正12年(1923)9月1日関東大震災で倒壊・燃えたようです。
大正14年(1925)2月に東京放送局が、放送地を芝区愛宕山公園地1号と決め、土地の持ち主東京市から使用許可を得て、借地権者芝区南浜町・細川力蔵と交渉し、531坪強を48,338円で購入をしました。この細川力蔵は後に目黒雅叙園の創始者となります。その後、東京放送局の電波塔は、昭和33年(1958)に完成した東京タワーを設計した内藤多仲(ないとうたちゅう)、建物は木子七郎(きごしちろう)に依頼し、建設されました。明治時代に愛宕山にあった愛宕館、愛宕塔は、関東大震災を契機に歴史の幻影になってしまいました。大正14年、人々の心に声を届ける東京放送局JOAKとなり、昭和31年(1956)にNHK放送博物館が開館し、愛宕神社と共に新しい愛宕山の物語を今も創り続けています。
文:森 明
文中:個人生没年省略 港区立港郷土資料館(現歴史館) 愛宕山 平成23年度特別展を参考にいたしました。
芝の老舗 知性と情を温める、三田の聖域『津國屋』150年のあゆみ「津國屋」

重厚な銅板張りの建物
港区三田。再開発による近代的なビル群の白壁が空を区切り、日々その高さを競うまちにあって、そこだけが別の重力を帯びているかのような一画があります。時代を感じさせる深い琥珀色の空気を纏った、家族経営の酒処「津國屋」です。
代表の伊藤浩之(ひろゆき)さんとご両親に、老舗の歩みを伺いました。
明治元年(1868)、日本が近代国家への一歩を踏み出し、学問の府、慶應義塾がこの地へ移転する以前から、津國屋は初代の伊藤半兵衛が高輪の本店より分家し、この地で酒販店として産声を上げました。2代目の伊藤忠太郎(ちゅうたろう)が明治26年(1893)に建てたこの店舗は、塾生や教授たちが時代の行く末を論じてきた「三田の記憶」とまちの軌跡を、今もその煤けた梁や柱に深く刻み込んでいます。
明治の魂を宿す「城」と、受け継がれる強運
軒先に掲げられた扁額(へんがく)、右から左へと綴られた「店酒屋國津」「番二七〇二芝話電」の古びた文字。店内には「塩小売所」のホーロー看板や、かつて周りのお屋敷へお酒を届ける際に使われた陶器製の樽「通い徳利」が整然と並んでいます。関東大震災や戦火という未曾有の災厄を潜り抜け、奇跡的に遺された商家建築は、伝統的な「出桁造(だしげたづくり)」の構造を持ち、2階部分の重厚な銅板張りが特徴的です。まさに三田のまちの生きた証人と言えるでしょう。
かつて周辺にはお屋敷が連なり、今なお格式高い三井倶楽部やハンガリー大使館が隣接するこの一画。5代目の伊藤精浩(きよひろ)さんが現役だった時代には、この地を拠点に、銀座のまちまでお酒を届けるべく東奔西走されていました。バブル期に高層マンションが周囲を囲んでも、津國屋だけは明治のままの姿で、訪れる人々を温かく迎え入れてきました。
伝統と「洋食の血」が織りなす唯一無二の味
最初のお品書きは、慶應義塾大学の授業が休みであることを伝える細い板「休講札」であったそうで、文教地区三田ならではの遊び心に顔がほころびます。提供される料理には、一般的な居酒屋とは一線を画す「深み」がありますが、その秘密は歴代の主たちが守り続けてきた「洋食の感性」にあるのかもしれません。
かつて酒屋の片隅で角打ちをしていた時代、4代目にあたる祖父の忠雄(ただお)さんは洋食を得意とし、祖母・範子(のりこ)さんは焼き物の名手でした。その血を受け継いだ6代目の浩之さんもまた、物心ついた時から家業の一本道を継ぐことを決意されていました。調理の専門学校を卒業後、名門の洋食店にて修行を積み、確かな技術を磨かれたのです。
平成13年(2001)、酒屋だった伝統建築を残しながら改築。現在の居酒屋スタイルへと完全に舵を切った際、浩之さんは居酒屋メニューにプロの和洋食技法を融合させました。現在も守り抜いているのは「素材を活かす手作り」という手作りの矜持です。名物のポテトサラダやオムソバの滋味深い味わいの裏には、洋食で培われた素材の引き出し方が息づいています。今でも厨房の傍らでは、5代目の精浩さんが市場に通って鮮魚を仕入れ、人気メニューの刺身をさばいています。父子の背中が並ぶ光景は、歴史が今も力強く更新されている証です。
女将の采配、姑から嫁へと繋ぐ暖簾
「店は女将でもつ」と言われます。津國屋を包み込む柔らかな空気は、代々の女性たちが醸成してきたものです。

左から、伊藤精浩さん、京子さん、6代目店主 浩之さん、恵子さん
長年、店の「総合プロデューサー」として接客から采配までを一手に引き受けてこられたのは、先代から家訓を守るお母さまの京子(きょうこ)さんです。カウンター越しの笑顔の接客は、絶妙な距離感で場を和ませるまさに老舗の真骨頂。店内に掲げられた日本酒の銘柄も、京子さんの達筆によるものです。また、初代から今日に至るまでを繋げた貴重な家系図も京子さんがしっかりと管理されており、一族の絆がこの暖簾を支えていることが伝わります。
そしてそのバトンは今、6代目夫人の恵子(けいこ)さんへと託されようとしています。元公務員という経歴を持つ恵子さんですが、浩之さんと共に歩むことを決意されました。姑から嫁へ、単なる知識ではない「もてなしの心」の継承が、カウンター越しに静かに行われています。
水色の徳利に映る、三田の未来
酒屋という目利きを活かし、選び抜かれた希少な日本酒が、驚くほどリーズナブルに提供されています。水色が美しく輝くガラスの1合徳利にお酒が満たされ、磨き込まれた木製のカウンターに置かれる瞬間、日常の疲れは静かに溶けていきます。
夜が深まり、ライトアップされた明治の建物が闇に浮かび上がると、そこだけが別の時間を刻んでいるかのような錯覚に陥ります。
浩之さん、恵子さん夫妻、そして精浩さん、京子さん夫妻の4人が守るその願いは、一皿の料理、一杯のお酒を通じて、三田の夜に静かに染み渡っていきます。
姿を変えゆくまちの中で、津國屋の暖簾は、わたしたちが決して忘れてはならない「情」と「誇り」を今夜も照らし続けています。まちに人が暮らし、歴史を繋いでいくことの尊さを、この美しい木造の屋根が教えてくれているのです。
INFORMATION 津國屋(つのくにや)
三田2-16-8 TEL 03-3451-0298
https://www.instagram.com/tuno_kuniya(外部サイトへリンク)
取材:森 明/早川 由紀 文:早川 由紀
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