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更新日:2015年11月2日

南麻布と落語(黄金餅)

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南麻布と落語(黄金餅)

このパネルについて

作成年度:平成26年度

写真左上:昭和50年(1975年):絶江坂坂下から坂上を望む(写真撮影:田口政典氏、写真提供:田口重久氏)

写真左下:平成26年(2014年):絶江坂坂下から坂上を望む

承応2年(1654年)、坂の東側に曹渓寺(そうけいじ)が赤坂から移転。初代和尚・絶江が名僧で付近の地名となり、坂名に変わった。

写真左中:平成27年(2015年):「おかめ団子」跡、白いビルの脇の道(写真右端)が永坂に通じている。

写真右中:平成27年(2015年):永坂、長くなだらかな坂道を下っていくと十番に出る。

写真左下:平成27年(2015年):大黒坂、坂の中腹北側に大黒天をまつる大法寺があったため、こう呼ばれた。大法寺の開山は慶長2年(1597年)。今も一本松の「大黒さま」として親しまれている。

写真右下:平成27年(2015年):一本松、大黒坂を上っていくと姿を現す。平安時代中期の武将・源経基(みなもとのつねもと)などの伝説をもち、古来、植えつがれてきた。

参考資料:『古地図と名所図会で味わう江戸の落語』(菅野俊輔著・青春出版社)、『志ん朝の落語5浮きつ沈みつ』(古今亭志ん朝著・筑摩書房)

古地図資料:『増補港区近代沿革図集(麻布・六本木)』(港区立港郷土資料館)

<あらすじ>

下谷の山崎町*1に西念という坊さんがいた。貧乏長屋に住み、一所懸命お金をためていたが、風邪がもとで患い寝ついてしまう。そこへ隣に住んでいた金山寺屋*2の金兵衛が心配して見舞いにやってくる。
何か食べたいものはないかとたずねる金兵衛に、あんころ餅を山ほど買ってもらった西念。「他人が見ていると食べられないたち」だといって金兵衛を家に帰す。気になるので、金兵衛が壁の穴から隣を覗いてみると、西念はなにやら考え込んだ様子。じきに懐から汚い胴巻きを出し、一分銀と二分金を山のように取り出すと、餅の中に詰め込み、次から次へと呑み込んでしまった。と、餅をのどに詰まらせて苦しそうにしはじめたので、飛んでいって背中を叩いたりして介抱するが、西念はあっけなく死んでしまう。
腹の中の金を一人占めにしようと目論む金兵衛。亡骸を菜漬用の樽に納め、大家に事の顛末を話すと、息のあるうちに「死んでも行き所がないから、金兵衛さんの寺に葬ってくれ」と頼まれたと付け加える。こうして長屋仲間と葬列を組み、金兵衛の寺・麻布絶江釜無村の木蓮寺(架空)まで向かうことになった。
一行は山崎町から上野の山下を経て上野広小路に出ると、御成街道を進み、神田川にかかる筋違御門を通って神田から日本橋に向かい、さらに京橋をまっすぐ進み、新橋の手前で右に折れ、新し橋(あたらしばし)のところで左に曲がって愛宕下に出て、神谷町を通って飯倉で坂を上がり、飯倉片町の「おかめ団子」*3の前を通って永坂を下り、十番へ出て大黒坂を上がり、一本松を経て麻布絶江釜無村の木蓮寺に到着。
木蓮寺で読経が終り、焼き場の切手(火葬願いの書類)を受け取ると、ここから先は金兵衛一人、亡骸の入った樽を背負い、夜道を焼き場のある桐ヶ谷*4へと向かう。
焼き場の男に、「腹のあたりは生焼けにしといてくれ」と妙な注文をつけるが、そうはゆかず。手伝いを申し出た男を追い払うと、「カリカリに焼いちまいやがって」などとぶつぶつ言いながら、隠し持っていた錆びた鯵切り包丁を取り出し、亡骸を調べはじめる。ようやくキラッと光るものを探し出した金兵衛。無我夢中でそれらをかき集め、急いで袂に入れて立ち去ろうとする。
男に焼き賃を置いていくように催促されると、「やなこった、泥棒!」、骨はどうするんだと問われると、「犬にでもやっちゃえ」と乱暴な答え。ともかく目的を果たした金兵衛。目黒に餅屋を出して、たいそう繁昌したという。
江戸の名物、黄金餅の由来の一席。
*1山崎町:東京都台東区東上野と北上野
*2金山寺屋:味噌売り
*3おかめ団子:江戸時代から明治時代まで飯倉片町に実在した団子屋。
*4桐ヶ谷:品川区西五反田(今も斎場がある)。

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